東京:1994年以来、プレイステーションの5つのゲーム機はビデオゲームの歴史を変えてきた。コントローラーの開発から店頭での揉め事、サダム・フセインの軍隊まで、5つの興味深い事実を紹介しよう:
ゲーム史の専門家である前田尋之氏によれば、1994年12月3日に日本で発売された初代プレイステーションは、当時の 「ワークステーション 」コンピューターにインスパイアされた灰色だった。
「ソニーの米国部門のトップは、よりエレガントな黒を希望したが、日本側は断固拒否した」と前田氏はAFPに語った。
カラフルな限定版を除けば、プレイステーション2、3、4は黒だった。2020年発売のプレイステーション5は白だ。
ソニーが初代プレイステーションを開発した当時は、ゲーム機製造の経験が浅かったため、「コントローラーの開発は最大の難関のひとつだった」と前田氏は言う。
「200以上のプロトタイプを作ったと言われています」と彼は言う。
当時のソニーのCEOであった大賀典雄氏は、経験豊富なパイロットであったため、コントローラーのデザインをより立体的なものにすることを推し進めた。このコントローラーの特徴である三角、丸、十字、四角のボタンは、何年もの間ほとんど変わっていない。
日本では、丸は承認の印であるため、何年もの間、コントローラーのボタンは「OK」であり、十字ボタンはキャンセルを意味していた。この機能は、欧米で販売されたプレイステーションのモデルでは逆になっていた。
しかし、米国市場の重要性を意識したソニーは、最新のゲーム機であるプレイステーション5で、この日本特有の機能を放棄した。
一方プレイステーションの成功は、そのゲームソフトに負うところが大きい。
ソニーはカートリッジの代わりにCDを採用することで、製造コストと生産時間を削減し、より多くのゲームメーカーにゲーム機向けタイトルの制作を促した。
「リッジレーサー』は3Dレーシングというジャンルをアーケードから持ち出し、ゲーム機の技術力を見せつけ、初期のステルスゲーム『メタルギアソリッド』はゲームと映画の橋渡しをした。
「ファイナルファンタジーVII」は、このカルトシリーズ初の3D作品で、任天堂のゲーム機向けに作られたものではないが、日本のロールプレイングゲームを多くの西洋人プレイヤーに紹介した。
他にも、サバイバルホラーの名作『バイオハザード』や、世界的なメディア・フランチャイズである『トゥームレイダー』など、ビデオゲームの歴史に名を残すタイトルがある。
プレイステーション2は、1億6,000万台以上を販売し、ビデオゲーム史上最も売れたゲーム機である。
その成功の理由のひとつは、DVDも再生できるという一石二鳥の性能にある。
PS2が発売された当初は、パリのシャンゼリゼ通りにあるヴァージン・メガストアをはじめ、限られた供給台数と膨大な需要から、争奪戦が繰り広げられた。
2000年末、アメリカのメディアネットワークNBCは、サダム・フセインのイラクが1400台のプレイステーション2を入手し、その強力なマイクロプロセッサーをミサイル誘導システムに使用していると報じた。
同年には、その高度なグラフィック処理能力を理由に、日本政府が同機をリスト規制に掲載したと報じられ、軍事利用の可能性が懸念された。
AFP