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英国人研究者ポール・マーティン氏、世界有数の日本刀専門家への道

ポール・マーティン氏は、ロンドンの大英博物館で日本部門の学芸員を務めていた人物で、日本には15年以上滞在している。
ポール・マーティン氏は、ロンドンの大英博物館で日本部門の学芸員を務めていた人物で、日本には15年以上滞在している。
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25 Nov 2021 09:11:34 GMT9
25 Nov 2021 09:11:34 GMT9

アミン・アッバス

ドバイ:世界有数の日本刀専門家であるポール・マーティン氏がアラブニュース・ジャパンの取材に応じ、自身の経歴や日本で過ごした15年間について語ってくれた。

ポール・マーティン氏は、ロンドンの大英博物館で日本部門の学芸員を務めた経歴を持つ。

同氏はカリフォルニア大学でアジア研究の修士号を取得し、公益財団法人日本刀文化振興協会の評議員を務めている。また、京都本願寺の文化団体「ジャポニスム振興会」の文化マイスターに認定されているほか、国土交通省認定の専門家として、外国人観光客に刀剣や日本の歴史・文化をアピールする方法を各都道府県に助言している。

マーティン氏は刀剣に対するインスピレーションと情熱を次のように語る。「私は7歳の頃から父に空手を習って育ちました。ですから、『武士道』や『サムライ・スピリット』という言葉を聞いて育ちました。私は最終的にイングランドの空手チームに入り、3度にわたって軽量級のイングランド空手チャンピオンになりました。また、黒澤明監督の『七人の侍』などの映画を見て育ちました」

初めて日本を訪れたのは1998年、ロンドンの大英博物館での仕事の一環だったという。彼は日本の武器や甲冑を、細心の注意を払い管理する必要があった。また、日本との間で物品をやり取りすることも仕事の一つであった。

刀の専門家としてのキャリアを確立したことについて、マーティン氏は次のように語っている。「私1993年、大英博物館の警備員の職を得ました。日本のギャラリーを案内されたとき、そこには日本刀が展示されていました。映画やテレビで見たことはありましたが、間近で見たことはありませんでした。その美しさにとても感動しました。その傍らには日本文化における日本刀の重要性に関する素晴らしい解説がありました。日本刀は単なる武器ではなく、宗教的、文化的な意味を持つ崇高な芸術品であると。ギャラリーにいた人が、この部門の責任者は日本刀の専門家であると教えてくれました。私はとても驚きました。その時まで、そのような職業があることさえ知らなかったのです」

マーティン氏は、その瞬間に人生の夢を確信したのだという。その後彼は刀剣を学び、英国日本刀協会に入会した。また、日本語も学んだ。

「偶然にも5年後、日本部門のポジションが空きました。私はそのポジションに応募し、その座を勝ち取りました」と同氏は語る。

キャリアの中で直面した課題について、マーティン氏はこう語った。「私が最初に直面した問題は、日本部門での昇進の見込みがないことでした。そこで私は2003年に大英博物館を退職し、フリーランスになりました。歴史上、日本人以外でフリーランスの日本刀専門家になった人は、私以外にはいないと思います。その挑戦は非常に大きなものでした。その後ロサンゼルスに1年間滞在し、日系人向けの地元新聞に刀剣記事を書きました。また、パサデナにあるパシフィック・アジア美術館で刀剣展を開催するための提案をしました。その提案は受け入れられ、2005年、「日本刀:吉原の伝統」と題した展覧会を開催しました。この展覧会は大成功を収め、当時の来場者数の記録を塗り替えました」

展覧会の1年前、マーティン氏は東京に移り住んでいた。刀の専門家になるためには、日本人と同じように勉強しなければならないと考えたからだと彼は語る。

「刀の本や展覧会の翻訳をしたり、外国人として初めて東京の刀剣鑑定コンクールで2回優勝したりしました」と説明してくれた。

マーティン氏は、日本刀を他の種類の刀剣と区別するためには、「日本刀は単なる武器とは考えられていない」ことを理解する必要があるという。「鋼材や焼き入れされた刃の模様には、精緻な研磨によって引き出された自然現象のような美しさがあり、日本人の自然観にも通じるものがあるのです」

刀剣の多くは玉鋼(たまはがね)を使用している。「玉鋼とは、大量の砂鉄を大量の木炭と一緒に土の炉で溶かして作られるブルーム(鋼)の一種です」と彼は説明する。

マーティン氏によると、刀は1週間から10日程度で鍛えることができるという。「しかし、刀匠のライセンス制限や、サポートする職人の数の関係で、待ち時間は通常、刃だけでも約9カ月から1年半かかることもあります。現在、日本には約200人の刀鍛冶がいます」

マーティン氏は、12世紀から13世紀にかけて活躍した、刀匠でもある後鳥羽上皇の生誕を祝うイベントの開催に取り組んだ。

「後鳥羽上皇は、武術、馬術、和歌、刀剣鑑定など、あらゆることに秀でたルネサンス的教養人として有名でした」と彼はアラブニュース・ジャパンに語る。

「後鳥羽上皇は、傀儡の天皇であることに嫌気がさし、1221年に起きた承久の乱で軍政に反旗を翻そうとしました。その準備として、天下一の刀匠を皇居に招き、月替わりで刀を作らせました。天皇の下で刀を作れるという栄誉を得た刀匠たちには、『御番鍛冶(ごばんかじ)』という総称が与えられました。後鳥羽上皇が作った、または少なくとも焼入れしたとされる刀には、刀身の根本にあたる茎(なかご)には菊紋の毛彫が施されています。この刻印は、日本皇室の紋章の起源とされています。後鳥羽上皇の作とされる刀は、現存するもので14本ほどあります」

「後鳥羽上皇は承久の乱で大敗し、隠岐島に流されて一生を終えました。上皇を慰めようと、刀鍛冶も隔月で島に派遣され、刀作りを続けていたと言われています。1939年、没後700年の節目に合わせ、隠岐島の墓の近くに隠岐神社が建立されました。刀匠たちが集まり、10本の刀を神社に奉納しました。これが『昭和御番鍛冶』と呼ばれるものです。これらの刀は、神社の近くにある海士町後鳥羽院資料館に常設展示されています」

マーティン氏は、後鳥羽上皇がどのような人物であったか日本であまり知られていないことに驚き、後鳥羽上皇への敬意を表するために刀匠たちの集いを提案したという。

刀剣についてより詳しく知りたい方は、マーティン氏の公式サイト

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