
東京:米国の原爆投下による被爆者たちは、火曜日にノーベル平和賞を受賞する予定だが、何年にもわたって反核キャンペーンを展開し、その傷跡を世界に示してきたにもかかわらず、彼らが直面した差別の辛い記憶をいまだに持ち続けている。
1945年のアメリカによる広島と長崎への原爆投下が日本の降伏と第二次世界大戦の終結につながった後、攻撃を生き延びた多くの人々は社会から疎まれた。
放射線被曝に関連した偏見によって、彼らは仕事を見つけるのが難しく、結婚の見込みにも影響を及ぼしたため、東京のある小さなグループは、数十人が一緒に埋葬される共同墓地を建てた。
政府によれば、日本には現在約10万6800人の「被爆者」がいるという。平均年齢は85歳である。
そのうちの一人である90歳の山田玲子さんは、1945年8月6日に米国が最初の原爆を投下し、約14万人が死亡したとき、広島に住んでいた11歳だった。
この原爆投下と、その3日後に長崎に投下され7万4千人が死亡した原爆攻撃は、生き残った人々に深刻な傷害と放射線関連の病気を与えた。
山田氏はAFPの取材に対し、「人々は傷跡や被曝について、極端な差別に直面していた」と語った。
昔は、被爆者に『結婚するな』とか『近づくな』と言われた。
「広島や長崎で家族全員を失い、親戚の家にいたにもかかわらず、それまで持っていたものを奪われ、いじめにあった人もいる」
東京に住む山田さんは、60年近くにわたって被爆者たちを支援し、その経験を分かち合うために世界中を飛び回ってきた。
「被爆者の家を訪ねると、何人かの被爆者は私に思いをささやいた」と語った。
平和賞は日本被団協が受賞した。日本被団協は、被爆者の権利と核兵器のない世界を求めて活動する大規模な草の根団体である。
しかし、自分たちと同じような苦しみを他の人々が味わうのを防ぎたいと願い、自分たちのトラウマや肉体的な傷について発言してきた初期の運動家たちの多くにとって、この賞は遅すぎた。
日本被団協の田中熙巳(てるみ)共同代表(92歳)は最近、記者団に対し、「私の隣に立ってくれた多くの人々、運動をリードしてくれた人々」がノーベル賞の栄誉を分かち合う場にいなかったことは「悲しく、悔しい」と語った。
第二次世界大戦後、被爆者を含む若者たちは、仕事や教育のために東京などの大都市に引き寄せられた。
多くの被爆者は、東京の人口密集地が「隠れる」ことを可能にすると考え、比較的孤立した生活を選んだと、東京の被爆者団体「豊友会」の運営に携わる村田美智子さん(73)は言う。
「多くの人が苦労しました」と村田さんは言う。放射能の影響を心配して、子どもを産まないことを決めた人も少なくなかったという。
豊友会のメンバーの中には、2005年に東京西部に共同墓地を建てた人もおり、村田さんはその墓地の管理も手伝っている。
しかし、彼らが年を重ねるにつれ、毎年そこで弔いの儀式を行うことは難しくなり、来年で終了する予定だ。
大きな岩の墓石の下には約60人の遺骨が埋葬されている。
「私たちはここに命を刻む: 核爆弾は決して許さない」と墓の横にある石のプレートには書かれている。
そこには、きちんとした葬儀をしてくれる身寄りのない被爆者の姿があった。
「彼らは孤独に生きていた。だから亡くなった後、差別を恐れずにヒロシマ・ナガサキについて語れる場所で、他の人たちと一緒にいたかったのです」と村田さんは語った。
山田さんは直接的な差別を受けたわけではないが、彼女の家族は自分たちが経験したことについて常に口を閉ざしていた。
「家族間でさえ、そのことを話したことはありませんでした」と彼女は言った。
広島に原爆が投下された8月の明るい朝、学校の運動場の木陰に座っていた彼女は、澄み切った空高く輝くB29爆撃機を見た。
そして、まばゆいばかりの白い光が光った。熱砂が彼女を地面に吹き飛ばした。
雲が集まった。空が暗くなった。放射性物質を含んだ黒い雨が降り始め、彼女は急に寒くなった。
「何が起こっているのかわからなかった」と山田さんは言った。彼の学校はグラウンドゼロから遠く離れていたため、全壊は免れた。
何千人もの血まみれで黒焦げになった生存者がすぐにこの地域を埋め尽くした。その多くは市中心部からの避難者で、路上で死亡し、遺体が片付けられるまで横たわっていた。
後に山田さんは、約2,300人の遺体が学校の敷地内で焼かれたことを知った。
「彼らの名前の記録はなかった。彼らは 「行方不明者 」になったのです」と彼女は言った。
世界中で戦争が激化している今、山田さんはノーベル賞が生存者たちの活動を正当化したと語った。
「私たちの夢を受け継いでくれる人たちに伝え、続けていきたい」と彼女は語った。
AFP