
ドバイ常勤ライター
日本への元サウジアラビア大使Mohammed Bashir Ali Kurdi 氏は、1963年の東京の夏をまざまざと覚えている。その年は彼の外交官キャリアの初年度であった。
「その年、日本国家、天皇、日本政府は一丸となって第二次世界大戦敗戦後の壊滅的な戦争の傷跡を払拭しようとしたのです」とKurdi大使はアラブニュースジャパンへ語った。
大使によると、東京オリンピックは世界の諸国に対して、日本が国際親交国という立場を復活させ、「平和と協調」のスローガンの元にスポーツマンシップを謳っていることを宣言するものであった。
「オリンピック開幕前の数日間、東京の家屋や道路が花で飾られ、建物や道路や通路は洗われ、空爆による砂塵が取り除かれました」とKurdi 大使は言った。
またKurdi 氏は、人類史発祥以来アラビア半島の港から伝来していった知識や科学が極東の都市を豊かにしてきたとも言う。
「数多くの言葉がアラビア語から日本語へ訳されました。当時の大使館地区の住所の最後には「Minat-Ku 」、つまり「港区」(港の目的地の意味)という言葉がついていました。東京の港は我々の大使館から目に入りました」
Kurdi 氏の日本駐在中に目に留まったもう一つのものは、彼らの気に入っていた日本酒の名前だ。「Sakeという言葉はアラビア語でバーテンダーを意味するSakiという言葉からきたものかもしれません」と語る。
Kurdi 氏によると、当時は港の飲み屋には様々な国からの水兵たちが連日訪れており、彼らの多くは日本語を話さなかったので、バーテンダーにアラビア語で「Saki」と叫んでいたという。そのうちにバーテンダーを呼ぶその言葉が日本人のアルコールの名前になったというわけだ。
「アラビア半島南部からの水兵たちが、日本を始めとする極東の港町へ向かうのを水先案内をしていたということは周知の事実です。立ち寄った先々の港町に彼らの存在を示すものが残っていたとしても不思議ではなく、アラビア語の言葉もその一つです」とKurdi 氏は言う。
しかしKurdi 氏は、これは単なる一つの考えにすぎず事実に基づく情報ではないとあわてて付け加えた。Kurdi 氏はサウジアラビアと日本との結びつきを強調し、その結びつきが日本の文明を豊かにし、公益を振興させたという。
「我々二国は友愛と近似性を強化し、文化的・技術的・経済的交流を活性化するために協働する必要があります」とKurdi 氏は述べる。
さらに彼は日本-サウジアラビア友好連盟についても言及した。同連盟はかつて著名な経済学者ヤマシタさんが会長を務めていたという。Kurdi 氏によれば、同連盟はサウジアラビアを国際社会へ紹介することに関して多大な貢献をし、それによってサウジアラビアはクウェートと共にアラビア湾 岸のAl-Khafhi 地域における探査と投資の契約を授かったのだった。
「日本ムスリム協会のことを忘れるわけにはいきません。このメンバーの大半は、工場の操業をサウジの原油と天然ガスに依存していた日本アラビア石油の従業員でした」とKurdi大使は言う。
「これらのメンバーのほとんどがアラビア語の読み書きや会話に堪能でした。第二次世界大戦前、日本は彼らの多くをエジプトやスーダンへ送り込んでいたからです。第二次世界大戦での日本の敗戦によって、彼らの多くが日本へ戻りイスラム教へ改宗しました」と彼は語る。
さらにKurdi氏は、Umar Mita教授につても回想する。Umar Mita教授は当時日本ムスリム協会の会長で、日本の富士山中に隠居しながらコーランの日本語翻訳に専念した。