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突然、サダムの像はバグダッドから消し去られた。

2023年3月31日撮影されたこの写真は、バグダッドのアンティークショップにて飾られている、イラクの最終的に追放された独裁者サダム・フセインと国の最初の近代君主ファイサル1世の肖像が描かれたキーホルダー。(File/AFP)
2023年3月31日撮影されたこの写真は、バグダッドのアンティークショップにて飾られている、イラクの最終的に追放された独裁者サダム・フセインと国の最初の近代君主ファイサル1世の肖像が描かれたキーホルダー。(File/AFP)
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09 Apr 2023 11:04:53 GMT9
09 Apr 2023 11:04:53 GMT9

バグダッド:イラクの美容師としての自身の人生についての無数の物語の中で、カイス アル シャラー 氏が何度も好んで話すのは、2003年4月9日にバグダッドのフィルドス広場にある自分のサロンの目の前で、イラク人とアメリカ海兵がサダム・フセインの像を引き摺り下ろしたのを目撃した際の話である。

右手を伸ばしたイラクの独裁者の12メートル(39フィート)の像は、そのつい一年前に彼の65歳の誕生日を祝って設置されたものであった。

「そこには国中の若いイラク人と像を覆うアメリカ軍が大勢いたけれど、彼らはただ自由を欲していたのです。」アル シャラー氏はAP通信に話した。「像は、皆が怯えたあの男の顔を見せていました。」

世界的に、これはアメリカが率いる侵略の象徴的な瞬間となった。テレビの、海兵が像を車両に括り付けて像を引き摺り下ろすライブ映像は、サダムの四半世紀に及ぶ統治の終焉のシンボルへと膨れ上がった。実際には、フィルドス広場の像はサダムが自分の力を誇示するために立てた膨大な数のモニュメントや宮廷のうちのたった一つに過ぎなかった。

その日から20年経った今、彼の像は全て消え去った。彼の宮殿や建物のうちの多くは、新しいイラクで別の目的のために利用されている。しかしながら、サダムの抑圧的な視覚的存在を一掃することで得られた希望の多くは徐々に消えてしまった。それは、最初は何年も続く残忍な暴力によって、そして現在は荒廃した経済と新しい宗派的な政治的エリートによる汚職の横行によって、燃え尽きてしまったのだ。

フィルドス広場は、民間の銀行の資金で小さな公園として改修された。広場にそびえ立つ建物には、2020年に米国の無人機攻撃によって暗殺されたイランのガッセム スレイマニ将軍と、預言者ムハンマドの孫であるイマーム・フセインの大きな壁画が描かれている。バグダッドでは、イランが支援するシーア派党が政府を独占していることによって、シーア派の絵が急増しており、これもその一種である。

「美しい緑と噴水のもとにサダムに取って代わったこの新しい庭は、今日のイラクの広範にわたる腐敗の象徴です。」アル シャラー氏は言う。彼は、サダムの統治を懐かしんではいないが、「法の統治」を恋しく思うと語った。

「家族は子どもを連れて行くのを怖がります。夜になると薬の売人たちがうろつき回るからです。」彼は広場についてそう語った。

ほとんどのサダム像について行方は不明である。しかし、そのかけらは土産として持ち去られた。

2003年に、ユタからきたアメリカ海軍の若い集団が、自分達はネットオークションで売り飛ばそうと像の右手を切り取ったと言った。しかしながら、軍の帰りのフライトで母国に密輸しようとしたところ、積荷から消え失せた。彼らの手に残っているのは、釣果のごとくそれを掲げる自分達の写真のみである。2016年に、ドイツの骨董商人がフセインの左脚を購入し、ネットオークションで100,000ドル以上で転売したと述べた。英国のジャーナリスト、ニゲル・エリー氏は、2017年の本で、彼が像から取り去ったサダムの左尻のかけらについて書いている。彼は、チャリティのためにそれをオークションにかけようとしたが、良い値がつかなかった。

宮殿や自分自身の銅像と肖像画でバグダッドや他の街を埋め尽くすというサダムの政策は、「神聖な指導者というイメージを創り上げました」と、チャタムハウスの上級研究員であるレナド マンスール氏 はAP通信に語った。サダムは「誰が責任者であるかを人々に思い知らせるために、さまざまな方法で力をを誇示する必要があったのです。」

サダムを象徴するモニュメントの中には、サダムを超えた国家主義的な意味合いを持つことから、変わらぬ地位にあり続けるものもある。例えば、チグリス川沿いにそびえ立つのは、交差した剣を持つ巨大な2本の手によって形成されるヴィクトリーアーチと、アル・シャヒード記念碑あるいは殉教者記念碑と呼ばれる2つの大きなターコイズ色の半ドームだ。これらは、1980年代のイラクのイランとの戦争で犠牲になった人々を憶えて、1983年と1989年に開設した。

アルフォー宮殿は、戦争中に同名の半島を奪還したことを記念して、1990年代にサダムによって人工湖の真ん中にある島に建設された。2003年以降、キャンプ・ビクトリーと呼ばれる米軍連合軍の司令部として初めて使用された。その後、イラクの有力実業家Saadi Saihood氏の資金援助により、アメリカン大学バグダッドへと生まれ変わった。

サダムの存在は今なお大学キャンパスに見られる。彼のイニシャルは壁や天井に刻み込まれている。人工湖には米軍兵が「サダム・バス」呼んだ巨大な鯉の一種が放流されている。

アメリカン大学バグダッドの副学長Dawn Dekle博士は、大学の歴史を保存することは重要であると述べた。「この宮殿はイラクの将来に属します」彼女はAP通信に語った。彼女はイラク人が国を離れていく今、大学がイラクの若者を失わないためのツールとなることができると期待している。「海外へ出て行った世代は、それを子どもたちにも経験させるために息子、娘をイラクに送り返したいと願っています」と。

サダムを直接写し出すようなものは消し去られた。

シーア派最大の地区、バグダッドのZASInは長い間サダム・シティと呼ばれていた。イラクのシーア派へのどんな意義も残酷に打ち砕いたサダムは、地区の主要な場所に自分自身の巨大でカラフルな壁画を意識的に置いた。

2003年の6月、シーア派の著名な聖職者の一家に因んでこの地区を公式にサドル・シティへと改称する式典にシーア派が殺到した。代替となる壁画が公開された。Mohammed-Baqir Al-Sadr と Mohammed-Sadiq Al-Sadr、サダム政権化とサダムの支配に抵抗したために殺害された2人の聖職者である。

彼らは、その義勇軍がサダム没落後の米国の統治と戦った扇動聖職者Muqtada Al-Sadrの、それぞれ義父と父でもあった。今日Muqtada Al-Sadrは、ライバルでありイランの支援を受けて政府の地位を独占しているシーア派党と対立するアウトサイダーとして自身をアピールしており、最も有力で派閥指導者の1人である。そのほとんどが困窮させられている100万ものシーア派が住むサドル・シティは彼の本拠地だ。

「その瞬間私が何を感じたのか、言葉で表すことはできない。それは、暗闇から光へと変わるようなものでした。」Thalal Moussaは、彼が10代の時に出席した改称の式典について語った。現在37歳、電力会社の契約社員である彼は、このようなより良い未来への期待が裏切られるのも目の当たりにしてきた。

「今、不幸にも、過去20年間にわたってこの国を支配してきた私たちの政権は腐敗しています。」

AP

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