
ガザ:イスラエル地上軍の進撃を逃れた膨大な数の避難民が集まる、ガザ地区南部の都市ラファの路上には、数万の人々があふれている。
「この数カ月は人生で最悪でした」と、ガザ地区北部のベイトゥ・ラヒアから避難してきたノハ・アル・マドゥンさんは語る。彼女は子どもたちとともに親戚宅に身を寄せた。
「夫と長男はテントで眠っています。全員の居場所はありません。わたしたちは床に寝ていて、寒さがこたえます」毛布が行き渡っていないためだと、彼女は言う。
「アパートは足りていませんし、追加でテントを張る場所さえないのです」と、マドゥンさんは訴えた。
国連によれば、現在ガザ地区の総人口240万人の半分以上がエジプト国境のラファに集中している。
泊めてもらえる親戚がおらず、アパートを借りる収入もない人々は、路上、広場、スポーツスタジアム、公園などにとにかく空いた場所を見つけ、テントを張って寝泊まりしている。
32歳のアブドゥルカリム・ミスバさんは、北部のジャバリア難民キャンプの自宅を追われ、ハーン・ユーニスに到着したが、再び避難を強いられた。
「わたしたちは先週、命からがらハーン・ユーニスを身ひとつで脱出しました。泊まる場所は見つからず、最初の2晩は路上で眠りました。女性と子どもたちはモスクに泊めてもらえました」と、彼は語る。
その後、彼らは支援物資のテントを受け取り、エジプト国境のすぐ隣に設置した。
「4人の子どもたちは寒さに震えています。体調はずっと悪いままです」と、ミスバさんは言う。
ほとんどの人々は、イスラエル国境に近い東部や、戦闘が続くハーン・ユーニスに近く危険な北部を避け、市の中心または西部に集まっている。
ハマスによる前例のないイスラエルへの越境攻撃を発端とする10月7日の開戦のあと、イスラエル軍はガザ地区住民に北部から避難するよう指示した。
避難指示の範囲はその後拡大し、多くのパレスチナ人は複数回にわたる避難を強いられた。
避難所として使われるラファの学校に身を寄せる、ガザ市民のアムジャド・アブデル・アアルさんによれば、開戦前は車でたった15分だった場所にたどり着くのに2時間もかかったという。
「ひどい渋滞です」と、支援物資の毛布とマットレスを受け取るための長い列に並びながら、車椅子に乗った彼女は語った。
「燃料不足なので車はあまりありません。みんな歩くか、トラックの荷台に乗るか、ロバが引く車に乗っています」。そう話す28歳のアアルさんの足元は裸足だ。
国連推計によれば、10月7日の開戦以降、自宅を追われた人々の数は170万人にのぼる。
公式データに基づくAFPの集計によれば、ハマスのイスラエルに対する越境攻撃では約1160人が死亡し、ほとんどは民間人だった。
ハマスが支配するガザ地区の保健省によれば、イスラエルの苛烈な攻撃により、同地区では少なくとも2万7131人が死亡し、ほとんどは女性と子どもだった。
戦争中、エジプト国境はほとんどのガザ市民に対して固く閉ざされており、ラファの通りは避難民ですし詰めになっている。
ハーン・ユーニスのタクシー運転手である41歳のメフラン・ダバビッシュさんは、状況は「日に日に悪くなっている」と訴える。
「ハーン・ユーニスからラファまでの道は、以前はひどい時でも20〜30分あれば着きました。今ではラファ市内の短距離を移動するだけでも、1時間半から2時間かかります」と、ダバビッシュさんはAFPに語った。
過密化はすべての人々に多大な負担を強いており、どんな手段であれ移動は極端に困難な状態だ。
ガザ市民のナイマ・アル・バユミさんは、入院中の親戚を尋ねるため徒歩4時間の道程の途中だが、もう疲れ果ててしまったと嘆く。
「何度かロバ車に乗りましたが、ひどく揺れるので落ちてしまいました」と、彼女はAFPに語った。
バユミさんは自宅が砲撃を受け、双子の赤ちゃんを同時に亡くしたことを涙ながらに語った。
「結婚して13年、ようやく子どもたちを授かったのが開戦1週目だったのです」。そう話す38歳のバユミさんは現在、夫とテントで暮らしている。
「もう生きていたくありません」と、彼女は言う。
路上では、数十人が乗ったトラックの荷台によじ登ろうとする女性に、人々が手を貸していた。
赤ちゃんを抱いた彼女は、落ちないように荷台につかまりながら、「生よりも死のほうが慈悲深い!」と叫んだ。
AFP