
レバノンでイスラエルとヒズボラとの間に迫る戦争の脅威は、20年以上前にかつての同盟国であったイスラエルに逃れた元レバノン民兵とその家族にとって、つらい記憶をよみがえらせている。
南レバノン軍(SLA)は、1980年代から1990年代にかけてイスラエルが南レバノンを占領した際に、そのほとんどがキリスト教徒だった民兵組織である。
ザダルニキムとはSLAの元メンバーである。グループのヘブライ語の頭文字からイスラエルではこう呼ばれている。2000年5月のイスラエルのレバノンからの突然の撤退の余波を受け、残忍で妥協のない紛争で長年戦ってきたヒズボラからの報復を恐れ、国境の南に避難した。
イランが支援するヒズボラ(大量のロケット弾とミサイルを保有するハマスの同盟勢力)は、ハマスが10月7日にイスラエルを攻撃してガザでの戦争を引き起こして以来、ほぼ毎日イスラエル軍と砲火を交わしている。
これに対してイスラエルは、レバノン領内の奥深くまで攻撃を加え、ヒズボラの司令官数人を標的にした。
国境の両側の幅数キロ(マイル)の一帯は、数万人の一般住民を空にして、事実上の戦場と化している。
「イスラエル北部のティベリアのホテルで2週間の準備をするように言われた」と、イスラエルの著名なレバノン人イスラエル協力者の一人であるクロード・イブラヒムさんは言う。
「もう6ヵ月になる。24年も続かないことを願っています」と彼はAFPに語った。
故アントワーヌ・ラハドSLA司令官の元右腕だったイブラヒムさんは、10月、レバノン国境に近いイスラエル北部の町キリヤト・シュモナから避難した。
1970年代から1980年代にかけてのレバノン内戦で、ザダルニキムが何年も村から村へと移り住んだ後、故郷を離れなければならなかったことを指して、彼は言った。
当局によれば、2000年5月にイスラエルに逃れた6,000人から7,000人のレバノン人のうち、約3,500人がまだイスラエルに住んでいる。彼らは「イスラエルのレバノン人」として内務省に登録され、2004年に市民権を与えられた。
イスラエルに到着して間もなく、当局は彼らの責任を一部しかもたず、多くはスウェーデン、ドイツ、カナダに移った。レバノンに戻った者もいたが、イスラエルとの協力の罪で裁判にかけられた。
イスラエルにいる元SLAメンバーは全員、レバノンに親戚がおり、そのほとんどはイスラエル国境から数キロ離れた南部の村にいる。
レバノンにいる家族への報復を恐れてインタビューに応じる者はほとんどおらず、同じ理由で第三者を通じて連絡を取り合っている。
テルアビブ近郊のバル=イラン大学でコミュニケーション学を学ぶ28歳のマリアム・ユネスさんは、両親とともにイスラエルに到着したとき5歳だった。
元SLA将校だった父親が10年前に亡くなったとき、両親は先祖代々のデベル村に埋葬することができた。デベル村は、彼らが移り住んだイスラエル北部の町マアロット・タルシハから直線距離で約10キロ(6マイル)のところにある。
残りの家族はレバノンのデベルと首都ベイルートに残った。
国境を越えたほぼ毎日の銃撃戦が本格的な戦争に発展するのではないかという懸念が高まる中、ユネスさんは親族のことを心配していた。
「家族のこと、(レバノンの)村のことがとても心配です。もしヒズボラとの全面戦争になったとしても、彼らを守る方法があることを願っています」
イブラヒムさんも同じように心配していたが、イスラエルとの新たな衝突によって、宿敵ヒズボラに「とどめを刺す」ことになるのではと期待を口にした。
「唯一の解決策は、ヒズボラを大規模に攻撃して、和平以外に道はないと理解させることです」。
イブラヒムさんは、イスラエルとレバノンが平和であってはならない理由はないと述べた。
しかし、インディアナ州にあるノートルダム大学の歴史学教授で、レバノンと中東を専門とするアッシャー・カウフマンさんは、内戦とレバノンのキリスト教民兵とイスラエル軍との協力関係は数十年の間に、イスラエル国内の態度は大きく変化したと述べた。
「1982年の(イスラエルによる)レバノン侵攻の根底にあった、レバノンのキリスト教徒とイスラエル人の同盟というビジョンは完全に崩壊した」
イスラエルは、レバノンを中東のスイス、平和で繁栄した国と見なすことをやめ、今では、レバノンを「関わりたくない暴力的な泥沼」と見なしている。
AFP