
モントリオール:チュニジア人は、彼らの権利を求める戦いを続け、10年前に自らに火をつけ、アラブ世界周辺の一連の抗議運動を引き起こした露天商の妹を信じねばならない。
しかし、レイラ・ブアジジさんは、2010年後半に勃発した反乱は、兄のモハメドさんを限界に追い込んだ経済問題の解決にはほとんど役立っていないことを認めた。
彼女は2013年の留学を機に移住したケベック州にて、「政府が何かするだろうと、誰もが思っていました」とAFPに語った。
「残念ですが、政府は何もしませんでした」と付け加えた彼女は、北アフリカの国の長年の支配者であるジーン・エル=アビジン・ベン・アリを倒し、民主主義の脆弱なシステムを導入するに至ったにもかかわらず、蜂起の結果には「非常に失望した」と述べている。
モハメド・ブアジジさんと彼の家族は、シディ・ブジッドという中央部の田舎町で質素な暮らしをしていた。
当時26歳だったモハメドさんは、多くの若い失業中のチュニジア人と同じように、旬の果物や野菜を売るという、限られた手段で愛する人たちを養っていた。
2010年12月17日の朝、警察はモハメドさんの手押し車(間に合わせの屋台の役割を果たしていた)と商品を押収した。
それが、小さな嫌がらせが続いた後の、最後の一押しになった。モハメドさんは自身にガソリンをかけて火をつけた。
「何らかの積み重ねで爆発してしまったのです」と、現在34歳のレイラさんは語る。
当時、彼女は別の町で学んでいたが、兄が口論の最中に婦警に平手打ちされたという話を聞いたことを思い出したという。しかし、警察がこれを認めることはなかった。
モハメドさんが地元当局に調査を依頼したところ、「兄は答えを得られなかった」と彼女は言った。「兄はとても腹を立てていました……だから兄はガソリンを手に取り、あんなことをしたんです」と彼女は述べる。この若者は、2011年の初めにその怪我を理由に亡くなった。
しかし、彼の行為は、チュニジア全土で前例のない大規模なデモを引き起こし、ソーシャルメディアによって勢いを増し、中東全域での一連の暴動のきっかけとなった。「兄が自分に火をつけたことで、皆が爆発して体制に抗議しました」とレイラさんは言う。
「誰もが状況が変わることを望んでいました」と付け加えた彼女は、彼女の弟もほとんどの若者と同じように「同じ状況」にあったと述べた。
モハメドさんの死をきっかけに、ブアジジ家は「多くの脅迫」を受けた。なかには殺害予告すらあったそうだ。また、革命に反対する人々によるネット上や街頭での嫌がらせも受けている。一家が金持ちになったという噂も広まった。「危険でした」とレイラさんは言う。彼女の母親、そして生き残った兄弟姉妹は、なんとかケベック州に移住した。現在、レイラさんは住宅街に暮らし、航空産業で働いている。
彼女は、彼らは「よく統合されている」と述べたが、チュニジアの出来事を追い続けている。チュニジアは過去10年間でいくつかの進歩、新憲法の制定やいくつかの民主的な選挙の実施などを目にしてきたと、彼女は言う。「話すことも、デモをすることもできます」と彼女は言い、ベン・アリの23年間の支配下にあった政治的自由の欠如に言及した。
しかし、後継の政権は経済状況を改善しておらず、特に若者にとっては厳しい状況にあるとレイラさんは付け加えた。
「投票があるたびに、彼らは『私たちはこれをするつもりだ、物事は変わるだろう』と言います。ですが、彼らが権力を握った時には、何も変わらないのです」と彼女は言う。
彼女は、チュニジアには破綻した医療システムを改革したり、大雨のたびに致命的な洪水が発生する老朽化したインフラを修復したりするための確固たる対策がないことを批判した。
また、政治的な進展があったにもかかわらず、シディ・ブジッドのような周縁地域の若者は、いまだに全国平均の3倍の失業率に直面している。
物価の上昇、所得の低迷、高学歴者でも就職の機会が少ないことから、革命前よりも「今の状況はさらに悪くなっているかもしれない」とレイラさんは言う。
悲惨なことに、チュニジアでは今でも毎年数十人の若者が焼身自殺を図っており、また、ヨーロッパを目指して危険な航海を試みる人が、特に失業中の若者のあいだで急増している。「私の兄だけではありません。多くの人が命を落としています」と彼女は語った。しかし、彼女は「事態が変わる事を願っている」と言う。「多くの人々が変化を求めて抗議し、声を上げています」と彼女は述べた。「10年以上かかるかもしれませんが、若者は権利を得るために抗議を続け、声を上げ続けなければなりません」
AFP