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「我々の抗議はより激しくなるだろう」とベイルート港爆発事故の被害者家族は語る

死者を出した8月4日のベイルート港爆発事故の現場の全景。この事故から約1年が経過した。この爆発で200人以上が死亡した。(ロイター)
死者を出した8月4日のベイルート港爆発事故の現場の全景。この事故から約1年が経過した。この爆発で200人以上が死亡した。(ロイター)
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03 Aug 2021 06:08:05 GMT9
03 Aug 2021 06:08:05 GMT9
  • 壊滅的な爆発の後、レバノン当局は「この1年、被害者が」真実と正義を求めることを「臆面もなく妨害してきた」と、人権団体アムネスティ・インターナショナルは非難

ナジャ・フーサリ

ベイルート:レバノン史上最悪の平時の災害となった壊滅的なベイルート港爆発事故から8月4日で1年になる。

8月4日、首都の大部分を破壊した大爆発で、少なくとも214人が死亡、6500人以上が負傷した。原因は、適切な安全対策を取らずにベイルート港に数年間保管されていた2750トンの硝酸アンモニウムだった。

犠牲者の遺族はベイルート港で宗教的な追悼儀式を行う予定だ。企業経営者らは4日にベイルートを黒いリボンで覆うと言っている。活動家らは反政府デモを計画している。

1年の節目を迎える前に、市内のバルコニーや商店では2日、レバノン国旗が掲げられた。

あの悲劇から1年が経とうとしているが、犠牲者の遺族は、確実に法の裁きが下されるようにして、爆発事故を招いた責任者の責任を問うという決意を変えていない。

「我々の抗議は近いうちに、より激しくなるだろう」とイブラヒム・ホテイトさんは語った。彼の兄であるタルワトさんは亡くなった。

彼は、「私たちを慰めようともしなかった非道な国家」を非難し、こう付け加えた。「(彼らが)ファディ・サワン判事を排除したのは、彼が(彼らの)宗派の政治的偶像に近づいたからだ」

「今日、この全体の駆け引きは、(訴追からの)『免責』という新しい題目の下で繰り返されている」

爆発事故の調査担当者に任命されたサワン氏は、同氏が過失を告発した2人の元大臣が苦情を申し立てたため、2月に調査から外された。また、数人の高官を尋問できるようにするために免責の解除が求められたが、承認されていない。

被害者家族を代表して発言していると言ったホテイトさんは、「国に対し、30時間以内に元大臣、現職の議員、治安当局者を含む被告人の免責を解除するよう」求めた。

彼は付け加えた。「当局は我々に、8月4日の街頭運動を平和的なものにするよう要請しているが、我々は規律を維持する警察ではない。あなたたちがこの国を壊した後、レバノン国民には、適法なありとあらゆる手段を用いて怒りや憤りを表す権利がある。我々があなたたちの調停役になることを期待するな」

被害者家族で構成される委員会は2日、自分たちの運動を政治利用しようとする試みは全て拒絶すると発表した。

人権団体アムネスティ・インターナショナルは、爆発事故の1年の節目を迎えるにあたって発表した声明の中で、壊滅的爆発の後、レバノン当局は「この1年、被害者が」真実と正義を求めることを「臆面もなく妨害してきた」と非難した。

爆発現場からわずか数百メートルのところにいたワリード・タハさん(67)はアラブニュースに対し、「4日に私を手伝ってくれる人がいたら、被害者家族や負傷者、抗議者と一緒に必ず追悼の日に参加する」と語った。

「私は何かおかしなことをしたい、たぶん何かを壊したいと思っているが、心が私を止めている。怒りは私にとって何の役にも立たないし、爆発事故以来負っている傷も癒さない。爆発で肋骨、肩、膝が壊れて、それ以来眠れていない」

電気技師であるタハさんは、ジェッダで10年間働いた後、家族と一緒に暮らすために2015年にベイルートに帰ってきた。彼は釣りが好きで、ベイルート港で釣りをする許可をレバノン公安総局から得ていた。8月4日は、新型コロナウイルスのロックダウンが解除された後、初めて釣りをしにそこに行った日だった、と彼は話した。彼はクルーズ船「オリエント・クイーン」が停泊している11番ドックにいた。午後5時頃、彼は妻に電話し、わずか300メートル先の9番ドックで火事が起きているのが見えると言った。彼は、そこにあるサイロに入っているのは花火だけだと思っていた。
「他の釣り人たちと話をして、ただの花火なのでとどまることに決めた」と彼は話した。

しかし、爆発音は次第に大きくなっていったという。

彼は次のように述べた。「私はクルーズ船の前に立っていたが、何が起きているのか分からなかった。午後6時頃、爆発が起こり、私が立っていた場所に石が飛んできた。私は急いで自分の車に乗り込んだ。クルーズ船のサービス係をしているフィリピン人女性たちがドックを歩いていて、そのうちの1人が身を守るために私の車の所まで来た」

「2回目の大爆発が起きたとき、車は海の中に放り込まれた。だが10階建てのビルに相当する高さの波が私たちを元の場所に戻してくれた。息子ががれきの中にいる私を探しに来るまで、私は意識を失っていた」

「私を呼ぶ息子の声を聞いた。私にできることは、頭を上げて『ここにいる』と言うことだけだった」

「息子は民間防衛隊に連絡した。私は防衛隊に救助されて病院に連れて行かれた。息子は数十体の遺体や、血を流している負傷者の間を歩かなければならなかった」

タハさんは3人の親友がドックで亡くなったと話した。「退役将校2人と、家族を養うために釣りをしている八百屋だった」

彼は付け加えた。「あの日、港のドックでは50人以上の人がジョギングをしていた。そのうちの何人かは亡くなり、何人かは怪我や障害を負った。私の友人は、より多くの魚を求めて14番ドックに移動していたため、爆発を切り抜けて一命を取り留めた。私の近くにいたフィリピン人の女の子たちは姿を消してしまった。海で溺れてしまったのかもしれない」

タハさんは、治療や回復の費用は自分で支払ったが、「誰も負傷者のことや彼らの運命を気に掛けなかった」と話した。

彼は付け加えた。「あの衝撃的な出来事の記憶が毎日よみがえる。おそらく治療が必要だ。分からないが。だが長い距離を歩くことができず、痛みもあるので失業した」

彼は爆発事故の真相と責任者が明らかになる可能性について悲観的だ。ベイルート港爆発事故の責任者よりも、ジョン・F・ケネディ元米国大統領暗殺事件の真相が先に明らかになるだろうと言っている。国家が国民を大切にしない国で正義が実現する見込みはないと思う、と彼は付け加えた。

「硝酸アンモニウムが入っているサイロの前を毎日通っていた」とタハさんは話した。

「放棄されたサイロで、ドアはさび付いていて、そこで小便をする人もいた」

「港に入るには3つの検問所を通過しなければならず、検問所では軍諜報機関や公安総局、陸軍が、入る人の身元や許可証をチェックしていたが、それでも爆発は起こった」

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