ヌール・ヌガリ:リヤド/ジョナサン・ゴーナル:ロンドン
現代のサウジアラビア王国の前身である、第一次サウード王国。この王国が1744年に建国されたという神話が、何世代にもわたり、歴史家や作家たちにより、自然と広められてきた。
サウジアラビア王国の起源に関する新しい研究により、実際には、王国はその17年前に誕生していたことが明らかになった。
1744年、ディルイーヤのイマーム・ムハンマド・イブン・サウードが宗教改革者のシェイク・ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブに聖域を提供した。たしかに、この出来事が非常に大きな意味を持っていたことは間違いない。
しかし、国家と信仰の間に共通の利害関係が生じた歴史的な瞬間の重要性は、時間の経過とともに、第一次サウード王国のはるかに複雑で、深い歴史的な起源を曖昧にした。
王国にとってきわめて重要な胎動の年が忘れられることのないよう、第二の建国記念日が作られた。1727年を真の誕生の瞬間として祝い、多くの人が認識しているよりもはるかに豊かな歴史をサウジアラビア人に深く理解してもらうためである。
イマーム・ムハンマド・イブン・サウードが国王に即位したのは1727年のことである。彼は3世紀前に先祖が築いた都市国家を、アラビア半島の大部分に平和と安定をもたらす、栄光に満ちた国家の首都へと変貌させるという夢を抱いていた。
この、1744年から1727年への時計のリセットは、新しいサウジ歴史研究施設が保有する歴史的資料をもとに行われた、広範な歴史研究の成果である。
ディルイーヤ・ゲート開発局の歴史研究・調査担当副部長のバドラン・アル・ホナイヘン博士は語る。「多くの歴史家は、国家の誕生をシェイク・ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブの登場と結びつけています。そして、国家の基礎となる時代であるのにもかかわらず、イマーム・ムハンマド・イブン・サウードの初期の統治と、それ以前の時代を軽視してきました」
「歴史上の出来事を修正したり再解釈したりすることは、世界のあらゆる地域で見られる知的な試みです。過去に書かれた文章は、この修正や新しい結論を妨げることのない、当時の判断や意見と考えることができます」
今日、国家誕生に向けた長い旅がいつ始まったのかを正確に特定できる人はいない。最初の確かな兆しは、バヌ・ハニファ族が紅海沿岸のヒジャーズからナジュド下流のアル・ヤママに移住した、430年である。
いくつかの重要なキャラバンルートの分岐点であるこの地に、アル・サウード家の一族は定住した。現在のリヤドであるハジールを設立し、交易を行い、肥沃な谷間で作物を栽培したのである。この土地は、やがて彼らの部族名から、ワディ・ハニファと名付けられた。
イスラム教の到来と共に、バヌ・ハニファの名は歴史の表舞台に現れることになる。
ムハンマドが、迫害されていた信者とともにメッカからメディナに逃れた「ヒジュラ」から6年後の628年、預言者はアラブの様々な支配者に手紙を送った。そして、神の意思に従う「イスラム」を受け入れるように呼びかけた。
この時のバヌ・ハニファの支配者はトゥマーマ・イブン・ウタールであった。彼の最初の拒絶から、心からイスラムを受け入れるまでの精神的な旅路は「ハディース」の中で称賛されている。
ハディース189節では、彼がモハメッドに「地球上であなたの顔ほど憎い顔はなかった。今ではあなたの顔は私にとって最も愛する顔となった」と語ったと記録されている。
歴史的には、アル・ヤママはその後800年の間、眠り続けていた。9世紀にナジュドで一時的に隆盛を誇ったウハイディリーヤ朝の圧政下、経済的困難から逃れるために移民が蔓延し、放置された暗黒時代であった。
しかし、運命とは忍耐強いものの味方である。15世紀にはついにバヌ・ハニファの影響力が復活する舞台が整ったのである。
数世代前、バヌ・ハニファの一部は東に移動して、アラビア湾岸に定住していた。しかし、1446年、バヌ・ハニファのアル・ドゥル族のマラダ家指導者、マニ・アル・ムライディは、ハジールの支配者である、いとこのイブン・ディルの招きに応じて、民衆を率いてアラビアの中心部に戻ってきた。
彼らが定住していた海岸に築いた集落は、部族名のアル・ドゥルにちなんでディルイーヤと名付けられていた。そして彼らは、移り住んだワディ・ハニファの肥沃な岸辺に、新たなディルイーヤを築いた。
歴史学者であるホナイヘン博士の言葉を借りれば、アル・ムライディの到着は、「預言者の国、ラシドゥンカリフに次ぐ、アラビア半島史上最大の国家設立の基礎を築いた」ことになる。
次の重要な一歩を踏み出すまでには、さらに300年の歳月が必要だった。1720年、サウード・イブン・ムハンマドがディルイーヤの指導者となった。サウジアラビア王室は彼の名を冠している。
現在、歴史家の間では、第一次サウード王国の建国は、サウードの息子、ムハンマドが都市国家の統治者となった1727年とされている。
彼は「例外的な状況下で権力を握りました」とホナイヘン博士は述べている。ディルイーヤでは分裂が起こり、ナジュドではアラビア半島に蔓延した疫病で多くの犠牲者が出た。しかし、「イマーム・ムハンマドは、ディルイーヤを統治下に置き、地域的にもアラビア半島的にも、安全と平和の普及に貢献することができた」のである。
「最初のサウジ国家の歴史は1727年に開始され、その後、彼の息子たちがそれを引き継いだのです。この物語で忘れてはならないのは、何世紀にもわたって欠如していた、結束、安全、平和です」
ついに、目の前の地平線を超えたビジョンを持ち、教育、文化、安全、そして真の信仰であるイスラム教への忠誠を基盤とした、新しい国家設立を決意した指導者が現れたのだ。
この革新的な、政治的、経済的にも強力に成長しつつある新国家に、宗教改革者であるシェイク・ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブが引き寄せられたのである。
シェイクは、近くの村、アル・ウヤイナの宗教学者であった。彼は、アラブ世界の多くの人々が預言者の教えを捨て、異端的な、イスラム以前の価値観に戻りつつあることに危機感を募らせていた。改革を進めようとした彼は、アル・ウヤイナでは反感を買ったが、ディルイーヤでは安らぎを得ることができた。
「シェイク・ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブがディルイーヤに移住したのは、イマーム・ムハンマド・イブン・サウードの政策の自然な成り行きでした」とホナイヘン博士は言う。イマームは信心深いことで知られており、彼の2人の兄弟、トゥナヤンとミシャリ、そして息子のアブドルアジーズは、すでにアル・ウヤイナでシェイク・ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブと出会っていました」
「シェイク・ムハンマドがアル・ウヤイナを離れたのは、イマーム・ムハンマドが彼をディルイーヤに招いたからです。そこには、シェイクの宗教的使命を守ることができる国家がありました」
「この改革派の伝導を支援するなかで、イマーム・ムハンマドは、自分が設立しようとしている国家の原則、特にその宗教的側面と、シェイクの使命が一致していることを確認したのです」
つまり、第一次サウード王国の設立を可能にしたのは、シェイクとイマームの同盟そのものではない。さきに、政治的にも経済的にも強固な国家が存在していたからこそ、改革のメッセージを広めることができたのである。
ホナイヘン博士は、1727年を建国の年と公式に認めたことは、サウジアラビア王国の礎である宗教を弱体化させるものと解釈してはならないと強調した。
「それは正しくありません」と彼は強調する。「その目的は、国家の設立、すなわちイマーム・ムハンマド・イブン・サウードがディルイーヤで権力を握ったことに、正確な政治的日付を置くことにあります。なぜなら、国家の繁栄と設立に関して多くの誤った政策や意見が生じていたからです」
「さらに、国家はその憲法において、サウジアラビア王国は、国教をイスラム教とする、神の書と預言者のスンナを憲法とする、アラブのイスラム国家であると規定しています」
また彼は、この第二の建国記念日(Founding Day)は、9月23日に祝われる建国記念日(National Day)の代替ではなく、補完的なものであることを明確にしている。
「新たな建国記念日は、1932年にサウジアラビア王国が統一されたことを祝うサウジ・ナショナル・デーに代わるものではありません。サウジ国家の歴史の始まりを、サウジ王国が持つ、その深い歴史的ルーツを祝う新しいイベントとして認識することを目的としています」
1727年という年号は間違いないが、イマーム・ムハンマドの統治が始まった正確な日付は歴史上失われている、とホナイヘン博士は語る。2月22日が建国記念日に選ばれたのは、イマーム・ムハンマドの治世が始まった1727年の最初の数ヶ月間に、いくつかの重要な出来事が起きたことが知られているという理由である。