
ラファ、ガザ地区:1948年のナクバの際に家族と共に立ち退きを強いられた時、アブ・アフマド・アドワンさんは5歳だった。彼らはガザ地区最南端のパレスチナとエジプトの国境に近いラファの街のキャンプに避難した。
アドワン一家と共に移住した他の家族たちが元々住んでいた村の名をとったバルバラ・キャンプの路地で、アドワンさんは育った。
「私たちはナクバ以前にバルバラの近所に住んでいて、ここで、帰還を果たすまで共にキャンプで過ごしています」と、今では70代後半になったアドワンさんがアラブニュースに語った。
現在、彼は村長(バルバラ村からの難民家族の長)であり、難民として人生を過ごしてきたものの、今でも帰還の権利を信じている。
「私たちはいつか帰還します。そして、私たちがこの世を去ったなら、私たちの子や孫が帰還し、国を再建するでしょう」
国連パレスチナ難民救済事業機関の推計によると、1948年に41,000人だったラファ・キャンプの難民は、現在では125,000人以上まで増加している。ガザ地区最大級のキャンプの住人らは、狭い通りにある過密な住居で暮らしている。ガザでは、約200万の人口の70%以上を難民が占める。
アドワンさんは、自宅の集会室の壁を覆う大きなバルバラ村の地図を使って、約35年前に最後に訪れたこの村について説明する。
彼は、バルバラやナクバの記憶に結びついた難民の物語について繰り返し話すことを、過去の世代の記憶を風化させず、奪われた権利の回復を促すための「一種の抵抗」と位置付けている。
「今の世代は親や祖父、ナクバの世代よりも意識が高く、1948年のナクバの体験が再び繰り返されることはあり得ません」と彼は述べた。
1970年生まれのモハメド・アドワンさんは、イスラエルの監獄から解放された元囚人だ。「キャンプはナクバ以来、革命の宝庫となっていて、絶えずあらゆる郷愁を込めてパレスチナについて語る父や祖父たちが、その燃料となっています」と彼は言う。
「私たちは遅かれ早かれ帰還します」と彼は加えて述べた。
アドワンさんは、難民キャンプが「占領への抵抗、後継世代の意識の形成、民族の記憶の保存」において役割を果たしていると語った。
そして、「元の街や村の名前を難民キャンプで使用することによって保存するのは重要なことです。それは時間的要因と、事実を偽ってパレスチナ人の地理的現実を歪めようとする占領者の企てに対する抵抗なのです」と述べた。
キャンプの人口が増加することによって、都市地域と混ざり合うようになった。レンガ造りにアスベストの屋根という簡素な住宅はほとんど姿を消し、コンクリート住宅に代わった。
難民問題の研究者であるナダー・アブ・シャレフ氏は、キャンプ内の家々で世代を越えて語り継がれる物語がパレスチナ人の大義を「生かし、成長させ」てきたと述べた。
ナクバで破壊されたそれぞれの村や街の家族たちは、新たなキャンプ内で近隣に集まり、名前を考案した。土地への愛着と帰還の権利への信奉から、彼らは故郷からとった名前を使った。それは名前と意味を記憶に留めるためでもあった。各キャンプには元々住んでいた場所の名前をとった通りがある。
「キャンプ内では、ナクバの出来事は現存しており、帰還の権利は絶対的に信じられています」とアブ・シャレフ氏は述べた。
「結婚披露宴ではAtaba、Mijna、Dabke、Dahiaといったナクバ以前からの歴史ある歌が歌われます」
「こういった伝統が人々の間に受け継がれているため、郷土は喜びの称号であり続け、帰還の権利は難民の日記の中に息づいているのです」
キャンプ内で、高齢の女性たちは今でも彩り豊かな伝統衣装を着ている。
人々は庭の一部を使って、失われた果樹園や農場をしのばせる植物を植えてきた。時にはそのスペースが小屋やテントを建てるために使われることもある。
今でも、破壊された町や村にあったものを模した粘土製の伝統的なオーブンを使って料理をする難民もいる。