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パレスチナ人の一部が戦火に見舞われたシリアの生活拠点に帰還へ

かつてここがパレスチナ難民コミュニティの政治的、文化的中心地であったことは、廃屋同然となった家々に掲げられたパレスチナ国旗からのみうかがい知ることができる。(ファイル/AP)
かつてここがパレスチナ難民コミュニティの政治的、文化的中心地であったことは、廃屋同然となった家々に掲げられたパレスチナ国旗からのみうかがい知ることができる。(ファイル/AP)
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18 Nov 2022 11:11:03 GMT9
18 Nov 2022 11:11:03 GMT9
  • 2年前、シリア当局は家の所有を証明できる元ヤルムーク住民に帰還許可を与え始めた。
  • ヤルムークは1957年にパレスチナ難民キャンプとして建設されたが、その後、活気ある郊外へと発展していった。

ベイルート:シリア最大のパレスチナ人キャンプは、かつて活気に満ちていた。ミニバスが多数行き来し、ファラフェルやシャワルマ、チーズとフィロ生地からなるスイーツ、クナーファ・ナブルスを売る店がひしめき合っていたのだ。

子供たちはサッカーをしたり、おもちゃの銃を振り回したりしていたが、シリアが内戦状態に陥ると、本物の銃を持った男たちがやってきた。過去10年間、首都ダマスカス郊外のヤルムークキャンプをはじめ、国中のコミュニティが戦闘により荒廃した。

現在、ヤルムークの街は瓦礫が山積みになったままだ。かつてここがパレスチナ難民コミュニティの政治的、文化的中心地であったことは、廃屋同然となった家々に掲げられたパレスチナ国旗からのみうかがい知ることができる。

2年前、シリア当局は、家の所有を証明でき、セキュリティチェックにパスした元ヤルムーク住民に帰還を許可し始めた。

ただ今のところ、戻った者ほとんどいない。逮捕されたり、強制的に徴兵されたりすることを恐れ、躊躇しているのが大多数である。もはや帰るべき家がない者もいる。しかし、シリア各地での戦闘が収まった現在、自分の家がどうなったのかを見たいと思う者もいる。

今月初め、政府は帰還民の受け入れを強調するために、珍しくジャーナリスト向けにヤルムークを開放した。それは、非政府組織が建設した新しいコミュニティセンターの立ち上げに際して行われたものである。

ムハンマド・ユースフ・ヤミル氏は、帰還した人々のうちの一人である。彼は現在のイスラエル、ティベリアス市の西にあるパレスチナ人の村、ルビアの出身で、1960年からヤルムークに住んでいた。シリア戦争が始まる前、彼はこのキャンプで3人の息子を育てた。

現在80歳の彼は、1年半前に政府の許可を取得し、破壊された家を修復しに戻ってきた。かつては30から40世帯が住んでいたが、今では4世帯しかいない。爆撃を免れた建物の多くは略奪され、窓ガラスや電気配線、蛇口までむしり取られていた。

彼は自宅について、「泥棒から守るためにここにいる」のだと話してくれた。

近くにあるモハメド・タヘル氏の家は右半分が倒壊し、残存する左半分を修復しているところである。55歳の彼は、キャンプ内の一部には水が通っており、下水道も機能しているが、「電気はきていない」と語った。

ヤルムークは1957年にパレスチナ難民キャンプとして建設されたが、労働者階級のシリア人も集まる活気ある郊外に発展した。国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)によると、2011年の蜂起が内戦に転じる前、ヤルムークにはパレスチナ人16万人を含む約120万人が暮らしていた。

UNRWAによれば、6月の時点で約4千人がヤルムークに帰還し、さらに8千世帯がこの夏に帰還許可を得た。

帰還民は「基本的なサービスの欠如、限られた交通手段、大きく破壊された公共インフラ」と闘っているとUNRWAはいう。ドアや窓のない家に住んでいる者もいる。

国連機関によれば、ヤルムークへの帰還が増えたのは、同キャンプが無料で住居を提供したことも一因だという。UNRWA主任のフィリップ・ラザリーニ氏は最近の記者会見で、シリアで増え続けるパレスチナ難民は、「基本的に、元いた場所に住む余裕がなくなったため、瓦礫の中に戻ってきている」と述べている。

かつてシリアのパレスチナ人は、シリア当局と複雑な関係にあった。シリアのアサド元大統領とパレスチナ解放機構の指導者ヤセル・アラファト議長は敵対関係にあったからである。

しかしシリアでは、パレスチナ難民は隣国レバノンの難民よりも社会経済的、市民的地位が高く、比較的快適に暮らしていた。

シリアで内戦が勃発すると、ヤルムークのパレスチナ人は中立を保とうとしたが、2012年末にはキャンプが紛争に引き込まれ、派閥ごとに対立する立場をとるようになった。

過激派組織ハマスがシリアの反体制派を支持する一方、パレスチナ解放人民戦線総司令部のように、シリア政府側で戦う組織もあった。

2013年、ヤルムークは政府軍による壊滅的な包囲の対象となった。2015年には、過激派組織「ダーイシュ」に占領された。2018年には政府の攻勢でキャンプが奪還され、残っていた住民は一掃された。

ヤルムークで育ったベイルート・アメリカン大学のサリ・ハナフィ教授(社会学)は、帰還する人々は「絶対的な必要性」からそうしているのだという。

「他の人々が戻らないのは、ここが住みにくい場所だからです」と彼はいう。

レバノンのパレスチナ難民キャンプに住むヤルムーク出身の青年も同意見である。シリアのアサド大統領がまだ強固に政権を維持しているため、もし戻れば「つねに不安で安心できない生活を送ることになるでしょう」という。

「キャンプに戻った人、シリアに戻った人は、もはや『自分がどれだけ自由になれるか』などとは考えていません。その人は、『ただ住む家が欲しい』とだけ考えているのです」と、シリアに戻った親族の身の安全を懸念して、彼は匿名を条件に語ってくれた。

コミュニティセンターの開所式では、ダマスカスのムハンマド・タレク・クレイシャティ知事が、瓦礫の撤去と公共施設および公共交通機関の復旧を約束した。

しかし、反シリア勢力と連携関係にあり、ロンドンを拠点とする「シリアのパレスチナ人のための活動団体」のマフムード・ザグムート氏は、人々を説得して帰還させるのは長い道のりであるという。

ザグムート氏によれば、ヤルムークには「病院やパン屋、ガス配給センター、それに基本的な消費財や食料品」が不足している。

レバノンの研究者で、パレスチナ解放民主戦線のメンバーであるスヘイル・ナトゥール氏のように、ヤルムークが過去の栄光を取り戻すことを望む者もいる。

彼は、1982年にイスラエル軍に破壊され、その後再建されたレバノンのパレスチナ難民キャンプ「アイン・エル・ヒルウェ」をあげ、ヤルムークが「いつの日か、パレスチナ難民の復活のシンボルとして大いに栄える」ことも可能だという。

これには懐疑的な見方もある。ヤルムークで育ち、現在はレバノンに住むサミ・マフムード氏(24)は、自分の記憶にある場所はもう跡形もないという。

彼は、ヤルムークの建物や街並みには愛着がない。「人々や食べ物、キャンプの雰囲気には愛着があります」と彼はいう。「でも、それらはすべて失われました」

AP

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