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ディエゴ・マラドーナがサウジアラビアでプレーしたとき・・・アラブ世界が伝説の逝去を悼む

1987年ジッダで行われたフレンドリーマッチでディエゴ・マラドーナはアル・アハリ側でプレーした(ツイッター)
1987年ジッダで行われたフレンドリーマッチでディエゴ・マラドーナはアル・アハリ側でプレーした(ツイッター)
アルゼンチン人のサッカーの伝説ディエゴ・マラドーナ(左)がエミラティ・アル・ワスルサッカー会社会長マルワン・ビン・バヤートとともに新しいシャツを見遣る。2011年9月11日、ドバイで行われた記者会見にて。AFP フォト/カリム・サヒブ カリム・サヒブ/AFP(AFP/ファイル)
アルゼンチン人のサッカーの伝説ディエゴ・マラドーナ(左)がエミラティ・アル・ワスルサッカー会社会長マルワン・ビン・バヤートとともに新しいシャツを見遣る。2011年9月11日、ドバイで行われた記者会見にて。AFP フォト/カリム・サヒブ カリム・サヒブ/AFP(AFP/ファイル)
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26 Nov 2020 08:11:31 GMT9
26 Nov 2020 08:11:31 GMT9
  • サウジアラビアはディエゴ・マラドーナの絶頂期にあった驚嘆すべき技術を直に見られて幸運だった
  • サッカー界の伝説はその後UAEで監督業へと進んだ

ロンドン:世界がこれまで見てきた中でディエゴ・マラドーナが最高の選手なのかどうかという議論が、水曜日に彼が亡くなったというニュースとともに再び白熱するだろう。しかし1987年のジッダで試合中の彼を実際に見た幸運なサウジアラビア人ファンは彼が最も偉大な選手だときっと言い張るだろう。そうはしない者たちでさえアラブ世界とともに、アルゼンチン人の死を悼むことになるだろう。

マラドーナ氏は1986年度ワールドカップでアルゼンチンを勝利に導いたことで世界的に知られている。氏はその時絶頂の時期にあった。メキシコでの彼のパフォーマンスは決して忘れられることはないだろう。

だから一年後に彼がアル・アハリのシャツを着ているのを見るというのは格別なことであった。彼はこのクラブの50周年を記念するためにデンマークのブレンビーに対するエキシビションマッチでアル・アハリに参加していたのだ。

毎週彼がプレーしていたナポリは彼らのスター選手がサウジアラビアに向かうことに不満だったし、怪我の可能性を心配した。だがそこはマラドーナだった。断るにはあまりにも大きすぎる10万ドルを手に、ピッチ上とその外で彼は自分が望むことを遂行した。

このスターの存在に後押しされるようにしてアル・アハリは敵であるヨーロッパのチームを5対2で下した。3点はこの南アメリカ人がお膳立てしたものであり、他の2点は彼自身が挙げたものであった。1点目はデンマークのゴールキーパーを超える爽快なロブで決まり、2点目は何げないフリックで決まった。その瞬間満員の客が喜びで激しく沸いた。興奮を与えたのはその技術だけではなくサッカーへの愛情であった。

マラドーナ氏はかつてアラブのチーム相手に一度だけ点を決めたことがあった。しかし1994年に行われたアルゼンチンとのこのフレンドリーマッチで、巨匠によって守備網が破られたことをモロッコのファンが気にすることはないだろう。それは自分の国の代表チームで挙げた最後から二番目のゴールであり、後続のワールドカップで薬物テストに失敗した彼は、二度とこの世界のステージでプレーすることはなかった。

1987年ジッダで行われたフレンドリーマッチでディエゴ・マラドーナはアル・アハリ側でプレーした(ツイッター)

彼はアルゼンチン代表チームの監督となって2010年ワールドカップでベスト8までチームを牽引した。そこでドイツに4対0で敗退して懲らしめられることになる。しかしその後一年も経たないうちに当時50歳だった彼は、サッカー界に激震を起こした。アル・ワスルの監督を引き継ぎUAEともっと広い地域の人々をワクワクさせることになったのだ。西アジアにはもっと良い実績を持った優秀な監督が来ていたが、これほどのサッカーのビックネームが来て、この仕事に励むということは一度もなかった。

私はアブダビのスタジアムの周りがざわついていたのを憶えている。2011年9月の対アル・ジャジーラ戦の彼が監督としての最初の試合であった。通常より大きな観衆が世界中から集まったメディアによってさらに大きく膨れた。彼らメディアはみな伝説の人物と一言交わそうと必死であった。報道陣に話しかける際には、にこやかにほほ笑む南アメリカ人の前に非常に多くのマイクが置かれた。その数たるやアジアのサッカーではこれまでにもめったに見られないものである。

 

1987年ジッダで行われたフレンドリーマッチでディエゴ・マラドーナはアル・アハリ側でプレーした(ツイッター)

実のところ彼は始める前でさえ成功者だった。クラブの名が世界中のヘッドラインを飾ったのだ。

「ビジネスの観点からするとそれは完全に理解できる実現可能な決断だったのです」とクラブの会長マルワン・ビン・バヤートは語る。「アル・ワスルの名が世界中のレーダーに爆発的に現れることになりました。我々が集めている世間の注目は世界で最大のクラブのそれに匹敵するほどなのです。」

ピッチ上での最初の試合は見て楽しいものではあったが4対3でビジターチームの敗戦であった。この敗戦が残りのシーズンのトーンを決めてしまう。退屈な瞬間などほとんどなかったが、最終的には失望に終わった。怒涛のような14か月をアル・ワスルで監督として過ごし、シーズンを8位で終えたあとで彼は解任された。2012年の7月のことであった。

アルゼンチン人のサッカーの伝説ディエゴ・マラドーナ(左)がエミラティ・アル・ワスルサッカー会社会長マルワン・ビン・バヤートとともに新しいシャツを見遣る。2011年9月11日、ドバイで行われた記者会見にて。AFP フォト/カリム・サヒブ (写真はカリム・サヒブ氏による/ AFP)

1982年と1990年のワールドカップでマラドーナ氏とプレーし、マラドーナ氏と同時期にUAEで監督をしていた、前アルゼンチン人で国際的な選手だったガブリエル・カルデロン氏は同国人である彼が世界で最高の選手である、と語った。

「チームに彼がいれば、なんでも可能なことが分かったでしょう」とカルデロン氏。氏はサウジアラビアで監督業を営む傍ら、バニーヤースで監督を務め、マラドーナ氏の後任としてアル・ワスルを指揮した。「UAEで監督を務める者として彼はそれが容易いことではないことを知っていました。自分がメディアの注目の中心にいた一方で、彼はただサッカーを愛し、選手たちのそばにいることを愛したのです。そしてできる限り彼らを助けようとしました。彼にはUAEで過ごした時間の中にたくさんの幸せな記憶があったし、ファンたちも彼を愛していたことを私は知っています。」

アル・ワスルの後もマラドーナ氏とUAEの関係は終わらず、2017年には2部にあったフジャイラを引き継いだ。しかし昇格を確保するのに失敗した後彼は次の年にチームを離れる。

世界が伝説の逝去にあたって喪に服している時、正当に言ってこれらは些細な事がらだろう。しかしアラブ世界には、1987年にサウジアラビアで短くはあるがまばゆい光を放った選手ディエゴ・マラドーナに対し、特別で独自な記憶がある。

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