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アラファトの没後15年、彼のレガシーを振り返る

15 Nov 2019
当時パレスチナ解放機構の指導者だったヤセル・アラファトは、1974年に国連総会でインスピレーションを与える「オリーブの枝」のスピーチを行った。10年後、彼はイスラエルとの間接交渉を開始し平和への扉を開いた。(AFP)
当時パレスチナ解放機構の指導者だったヤセル・アラファトは、1974年に国連総会でインスピレーションを与える「オリーブの枝」のスピーチを行った。10年後、彼はイスラエルとの間接交渉を開始し平和への扉を開いた。(AFP)

今週ヤセル・アラファトの没後15年目を迎えるが、彼ほどパレスチナ人のために多くの犠牲を払い、多くのリスクを負い、多くのことを成し遂げたものはいなかった。

アラファトはもっともな理由でイスラエル人とユダヤ人から非難されてきた。彼はパレスチナ人など「存在しない」と発言したゴルダ・メイアの人種差別的な言葉を引用し、それが道徳的、倫理的、法的に間違っていることを証明したのだ。

アラファトは、圧倒的な強敵に立ち向かう人、自由の擁護者、抑圧の敵対者、未来の世代のロールモデルとして、何百万人ものパレスチナ人、アラブ人、イスラム教徒にインスピレーションを与えた。アラファトは英雄的な自由の戦士であり、自国民のための殉教者であり、私を含め多くの人が信じるように、イスラエルの戦争犯罪者アリエル・シャロンの命令によって暗殺された。

アラブ世界で残忍な英国の委任統治下またはイスラエルの抑圧の下で暮らしている、あるいは、ディアスポラの非友好的な世界で生き残っているパレスチナ人の子どもたちはみな、アラファトの名前が、善のより強力な悪との戦いを象徴しているという事実に慰めを見つけることができた。

1958年に「Harakat Tahrir Filasteen」(パレスチナ民族解放運動)の略語、ファタハ(Fatah)を共同で設立したアラファトは、私の個人的なインスピレーションだった。 彼はニュースメディアとコミュニケーションの力を理解し、イスラエルの殺人政権に対する武装闘争を提唱する雑誌を立ち上げた。 

1969年、アラファトは1964年にアラブ世界によって形成されたパレスチナ解放機構(PLO)を引き継ぎ、世界で最も恐れられ、畏敬される革命運動の1つへと変えた。彼のリーダーシップの下で、PLOは占領地の内外におけるパレスチナ組織の複雑な網をまとめるよう働きかけた。彼は、パレスチナ人を権利がなく存在しないテロリストとして描いた軍事国家イスラエルの悪質なプロパガンダにもかかわらず、パレスチナの大義は地球上で最も正しいものの1つであると世界に確信させた。

35年前の今週、私は1974年11月13日にアラファトが国連で行ったスピーチを目にし感銘を受けた。そのスピーチの中で、アラファトは過去数年間に彼と彼の味方を殺すために多数の殺人隊を派遣し続けているイスラエル政権に忠告した。彼はイスラエルに対し、人種差別を終わらせ、「民主的なパレスチナ」を受け入れるよう求めた。これは不正行為の犠牲となっているすべての者により、自由のための闘争のインスピレーションを求めて崇められ、使用されている歴史的スピーチであった。

アラファトが世界に教えたのは、パレスチナ人はイスラエルの抑圧に対して自由のために戦う暴力を使うあらゆる権利があるが、平和への扉は人権と平等の原則を認識するだけで開かれるということだった。

「今日、私はオリーブの枝と自由の戦士の銃を持って来ました。どうかオリーブの枝を私の手から落とさせないでください。 繰り返します。オリーブの枝を私の手から落とさせないでください。戦火はパレスチナで燃え上がっていますが、それでも平和が生まれるのもパレスチナです」とアラファトは国連総会で、また自由を愛する世界に向けて語った。

そしてアラファトはやり遂げた。1988年、彼はイスラエルとの間接的な交渉を開始し、双方の暴力を終わらせたのだ。これは1993年9月13日にホワイトハウスの芝生で私が実際に目にしたオスロ合意の署名へとつながった。アラファトは、ヨルダン川西岸とガザ地区でのパレスチナ自治と引き換えに、1967年の国境内でイスラエルを承認する原則宣言に署名した。アラファトはイスラエルのイツハク・ラビン首相と握手し、イスラエルのシモン・ペレス外相とPLOのマフムード・アッバス外相が合意に署名した。

アラファトは、ラビンを信頼するという正しい選択を行った。ラビンは、自国民に平和をもたらし、パレスチナ人に未来をもたらすことを心から望んでいた。彼らはともに、短い期間真の平和の道を開いたが、それはイスラエルのテロリストとシャロンの弟子、彼の以前のテロリスト仲間イツハク・シャミル、および彼らの政治代理、ベンヤミン・ネタニヤフによって破壊された。ラビンは1995年11月4日に暗殺され、1996年6月にネタニヤフが首相として平和を破壊し、最初の選挙への扉を開いた。

1999年7月にネタニヤフの後を継いだエフード・バラックとアラファトとの間で行われた2000年キャンプ・デービッド・サミットなど、オスロ合意に基づきいくつかの努力がなされた。しかし、ビル・クリントン大統領が主導した交渉は崩壊した。バラックはアラファトを非難し、アラファトを支持する人々はバラックを非難した。イスラエル人は、バラックがエルサレムの一部、難民への補償、ヨルダン川西岸の90パーセントを含むすべてをアラファトに提供したと誤って主張した。しかし、バラックからのいわゆる平和の意思表示のいづれも正式に書き記されたことはなかった。和平の申し出は、妥協に基づいた平和運動を弱体化させるイスラエルの嘘のプロパガンダとなった。

バラックがアラファトとの新たな妥協点に到達できなかったことにより、イスラエルの過激派がラビンとアラファトが結んだ平和合意を破壊する第二の機会への扉を開くこととなった。2000年9月28日、数百人もの武装したイスラエル警察に囲まれた野党指導者アリエル・シャロンがアル・ハラム・アル・シャリフに突入し、パレスチナ人との新たな紛争を引き起こした。これにより殺りくが増加し、抑圧はさらに悪化する事態となった。

シャロンは和平協定を破壊し、彼が和平交渉の前に何度か暗殺を試みた相手であるアラファトを屈辱しようとした。2002年、シャロンは、ラマラにあるアラファトの議長府を囲み、軟禁状態にするようイスラエル軍に命じた。シャロンの完全な軍事支配下にある間にアラファトが死の病にかかったことは、シャロンが最終的にパレスチナの指導者を暗殺するという目標を達成したという疑念を提起するものだった。フランスで医療援助を求めることが許可されたアラファトは、2004年11月11日にフランスで亡くなった。

アラファトはヒーローであり手本となる人で、彼のレガシーはパレスチナの平和と正義の対価は厳しいということをわれわれに思い出させ続けている。しかし、それはわれわれの集団的な犠牲に値する目標である。今日の困難な時代において、パレスチナ人を導く新たなアラファトを見つけることを願っている。

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