
イスラエル占領下で暮らすパレスチナ人や、世界の他の地域に住む彼らの親族に、イスラエルの占領で最も困っていることは何かと尋ねれば、占領地内や占領地と他の地域との間の移動の問題が、最上位ではないにしても、かなりな上位に挙げられることは間違いないだろう。
皮肉なことに、この問題への答えはすでに世界人権宣言の第13条で明白かつ明確に与えられている。世界人権宣言の第1条第1項は、国内における移動について「すべての人は、それぞれの国の国境内において、移動及び居住の自由を享有する権利を有する」と述べている。同第2項は、国内および国外への移動を扱っており、「すべての人は、自国を含むすべての国から出国し、また自国に帰国する権利を有する」と規定している。
これらの権利について読むとき、自然と思い浮かぶのは、1967年にイスラエルが占領した地域が一つの国であるのかどうかという問いである。これまで何度も見てきたように、イスラエルは海と川に挟まれた地域全体を一つの地域として扱っている。実際、イスラエルのゴルダ・メイア元首相はある時、記者からイスラエルの国境はどこかと聞かれ、国境の端は最も遠いイスラエル兵が立っているところだと答えたという。
もちろん、イスラエルは支配下にあるすべての人々を同じように扱っているわけではなく、パレスチナ人をガザ地区、エルサレム、ヨルダン川西岸地区の3つの地域に分けている。ヨルダン川西岸地区では、さらにA、B、Cという区分があり、A地区だけがパレスチナ人による完全な統治と治安維持の下にある(ただし、イスラエルはしばしばこの地区の自治も侵害している)。
もしメイア元首相の定義を受け入れるなら、イスラエルはガザ地区のパレスチナ人が他の占領地へ移動することを妨げることで、世界人権宣言の第13条に明らかに違反していることになる。ヨルダン川西岸地区のパレスチナ人が、1967年に同地区とともに占領された東エルサレムに、およびガザ地区に行くことをイスラエルが制限していることも同様である。
人権宣言第13条第2項にある国外への移動についても、イスラエルはすべてのガザ地区住民のイスラエルの国境検問所を経由した移動を禁止し、ヨルダン川西岸地区の住民(東エルサレムを除く)の空港利用を停止し、西岸地区住民に唯一認められている国境を越えた移動であるヨルダン国境のキング・フセイン橋(アレンビー橋)を通る陸路移動に時間制限を課している。
何十年もの間、自国内を移動しようとするパレスチナ人やその親族、友人たちは、人間としての尊厳を否定され続けてきたのだ。
ダオウド・クタブ
さらに、イスラエルおよびパレスチナの外に住むパレスチナ人のほとんどが、占領下の地域全般、特にガザ地区を訪れる権利に厳しい制限を受けている。
キング・フセイン橋を通る越境移動には、7月後半になって発生した大きな問題をきっかけに、ヨルダン当局が最近、政治措置を繰り返している。メッカへの大巡礼(ハッジ)に参加したパレスチナ人たちが帰国途中にキング・フセイン橋にさしかかった時には、国境を越えて親類を訪ねようとする米国人を中心とする多数の外国人もおり、夏の間の訪問者数の全般的な増加とも相まって、橋の混雑の状況は人道的に許される水準を超えて悪化してしまった。
イスラエルが国境を越えることを許可する人数を厳しく制限していたため、文字通り何千人もの旅行者(多くは子供連れ)が橋のヨルダン側で足止めされたのである。イスラエルによる制限は、主に国境の受付時間の制限が要因である。世界のほとんどの国境は24時間、年中無休で開いているが、イスラエルは平日の受付時間を制限しており、週末の金曜日と土曜日は時間がさらに短くなる。
過去数年間、イスラエルは夏季の国境受付時間を延長し、24時間無休で橋を開放したことも何度かあったが、今年は今のところ、パレスチナ人の苦しみには注意を払わず、ヨルダン政府や外国の外交関係者の訴えも無視しているようである。
先日この地を訪れた米国のバイデン大統領は、米政府はパレスチナ人の平和、自由、尊厳を求めると繰り返し述べている。バイデン氏によれば、このうち平和と自由は、交渉ができるほど成熟した状況ではないので、今もこれからもまったく実現しないかも知れないため、米国は尊厳の問題を、優先的に扱っているとのことである。しかし、占領地の内外や占領地内(エルサレムやガザを含む)を移動する際のわずかな尊厳さえも、パレスチナ人には否定されているのだ。占領国イスラエルがそうした尊厳を認めるのは元来当然であり、その唯一強力な同盟国である米国も、占領下のパレスチナ人には最低でも尊厳を与えるべきだと明言しているにもかかわらずだ。
パレスチナ当局者たちは、エリコのキング・フセイン橋の国境検問所をカラメ国境地点と呼んでいる。カラメとは、アラビア語で「尊厳」を意味する。しかし悲しいことに、何十年もの間、パレスチナ人やその親族、友人が自国内を旅行したい、あるいは自国を離れて戻ってきたいと願うとき、彼らの尊厳は否定されてきた。まさか、それは高望みというものだとでも言うのだろうか。