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恐るべき現実となりつつあるオーウェルの警告の数々

ジョージ・オーウェルの著作は、『1984年』『動物農場』を筆頭に、未来を怖ろしいほど言い当てている。(AFP)
ジョージ・オーウェルの著作は、『1984年』『動物農場』を筆頭に、未来を怖ろしいほど言い当てている。(AFP)
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05 Feb 2020 11:02:32 GMT9
05 Feb 2020 11:02:32 GMT9

ジョージ・オーウェルは、その生涯と作品の多くで複雑な人物、賛否の分かれる人物だった。『1984年』や『動物農場』といったオーウェル作品は特に、ぞっとするほど未来を言い当てている。先月、作家の没後70年を迎えた。衒いなき一個の人物として見る者、イデオロギー的な選好を論じる者がいるかと思えば、作家に成り代わり以下のような問いに答えるといった益体もない挙に出る者もいた。いわく、もし作家が今も生きていればブレグジットに賛同したか? スマホを持っていたろうか? 彼の書き残したものをいくら読んだところでこんな問いにはっきりした答えなど出るわけがない。より重要なのは、その優れた予見力以上に、オーウェルはわれわれに、人間のもつ本性と行動について鋭い、眼光紙背に徹する正確な観察を残した事実を認めることだ。これは時を超えたものだ。

オーウェルが作家生活を送っていた時期の大半は、当時世界で最も権勢を振るっていた国々に権威主義や全体主義はありふれていた。だから、こうした権力形態を不可避の結論としたのはむしろ予言というよりは彼の想像力だった。スペイン内戦、ファッショ政権下のイタリア、ナチスドイツ、スターリン治下のソ連、さらには、作家自身はその初期段階しか目にしていないが米国のマッカーシズムにいたるまで、『ビッグブラザー』の支配するディストピアを作家が描く題材には事欠かなかった。

近年は技術が進歩し、権威主義が可能となり現に力を振るうことがたやすくなった。つまりオーウェル的世界が現実のものとなった。監視と侵入の技術が進歩し、私生活などはなきがごときにまでいたっているが、これが過去志向的な勢力に力を貸している。そうしてよりリベラルで先進的な勢力をむしばみ、ときに抑圧している。監視社会は必然的に人を畏怖させる社会であり、自由な言論や議論を恐れるように人を教化していく社会だ。

オーウェルの『動物農場』にはもともと序文があった。中にこんな文がある。「自由になにがしかの意味があるならそれは、人々が聞きたがらないことを人々に伝える権利のことだ」。今の政治や社会を論じる文脈で欠けているのはまさにこれではないか。建設的かつ知見ある議論をする能力をわれわれは失いつつある。それはつまり、恐怖や偏見や先入主にもとづく感情的な口舌をあおるのではなしに、世論を形成するといったていの議論が欠けているということだ。権威主義的な体制では、言論の自由は人の幸福はおろか自由までも危殆に陥れる。民主主義社会では、公の議論の向く先はいかなるコストを払ってでも選挙で支持を得ることだ。価値観や政策の選択について建設的に熟議を重ねるという方角へは行かない。たとえそれが、最少共通項たる低俗きわまりない趣向にくみし、敵に対する不確かな真実、まったくのウソ、中傷、煽動を拡散することを意味するのであっても。長い目で見てよく考えて決定を出すためには忌憚なく議論を戦わせることが必須だが、どこにも見当たらないからかえってその不在が際立つ。

つい最近まで科学の知見を奉じ大事にしてきたこの世界は、今や「ポストトゥルース」の世界だ。

ヨシ・メケルバーグ

1948年に執筆されて以来、政治議論の際には長らくメルクマールとなりかつ、その妥当性とあっては時を経ていや増すばかりであるのが『1984年』であり、そこに出てきた示唆に富む革新的な単語の数々だ。ニュースピーク、ダブルシンク(二重思考)、ビッグブラザー、メモリーホール(記憶穴)、思考警察、101号室などといった単語はすでに人口に膾炙した。ソーシャルメディアだとか顔認証機能付きの監視カメラ、サイバーセキュリティといった技術により、少なくとも表面上は、社会を管理する手段はより巧妙になっている。これらは見えない全体主義の道具なのだが、われわれはうわべではそこへ参画することに消極的でない。ではあるが発言権などないも同然だ。

政府や企業とデータ共有しないという選択肢はもはやありえない。なんとなれば、さもなくば公共サービスを享受できなくなり経済のシステムから放擲されるよりないからだ。データ収集にはさらに悪辣な役割もある。政治が選挙や住民投票の形で民意を歪曲したり操作したりする場合、不確かな事実やさては虚偽までもが周知活動の際には大量投与されるのだ。オーウェルの造語であるダブルシンクとニュースピークから、ダブルスピークなる新造語ができている。ダブルスピークというのは、「戦争は平和であり平和は戦争である」といったたぐいの、反対概念を同時に語る語法だ。つまり、国家が戦争に向かったり他国に干渉したりする際におのれを正当化するためにうんぬんしている、秩序の安定なり人権の促進のためだなどといった常套句に同じい。イラクやシリアでも同断であったが、実際におこなわれたのは破壊の伝播であり、大いに促進されたのは参戦国らの既得権益なり無道のイデオロギーなりであった。

『1984年』の主人公ウィンストン・スミスは真理省の検閲官だった。真理省とは、国民に十分に裏付けのある、事実に基づいた真実を提供する代わりに、見えない体制にそぐう計略をめぐらせた真実のほうを供与するという組織だ。多くの国々で最近おこなわれている選挙は、ブレグジットにともなう国民投票やその他主要な政治論争同様、作られた「真実」がベースにある。政治に関わる者の中には、国民の耳に心地よいことを語るのに長け、仮に何か信ずべきほどのことがあるにもせよ特に深く信じるほどでないことは伝えないといった者たちが登場している。ソーシャルメディアの力はこの点大きい。われわれの行動はコメントであれ検索であれ購買であれどれもみな、はるか彼方にいる者たちに分析され、検閲されることすらあるのだから。大きな力をもった勢力はわれわれが誰と通信しているかを知悉しているし、ソフトウェアはわれわれの通信内容を自由に、ときにわれわれの許可もなく、あるいはわれわれがまるで知らないうちに当局へ提出する。われわれを操作したり阻止したり罰したりするためにこうした通信内容は利用することが可能だ。

つい最近まで科学の知見を奉じ大事にしてきたこの世界は、今や「ポストトゥルース」の世界だ。オックスフォード辞典によればそれはこう定義される。「世論の形成に際し客観的事実があまり考慮されず、むしろ感情や個人的信念への訴求のほうが影響をもつような状況に関すること、あるいはそうしたこと」。公の議論では、移民、気候変動、ブレグジット、軍事力の行使、福祉社会、安全か人権かといった問題すべての土台にあるのは事実よりも思い込みや感情のほうだ。さらに政敵への攻撃を煽り立てる沙汰となると、オーウェルの「二分間憎悪」を彷彿させるが、そこかしこで見られるまでになっている。

オーウェルの残した作品が未来を見通したものだったのか、あるいは単にきわめて洞察力に富んだものであったのかとなると、いまだ議論の余地はあるはずだ。わけても21世紀は、国家が日常生活の隅々まで目を光らせ、操作し、管理していることから、ビッグブラザーの作品世界のシナリオ通りに進みつつあるのであるから。第四次産業革命はすでにそこまで来ている。『1984年』で描かれたディストピアは来たるべき権威主義を先取りしたものとなるかもしれない。その到来を避けられなければ、われわれはすべて、より大きなゲームの駒に過ぎざる者になりかねない。すなわちオーウェルの警告は恐るべき現実となるやもしれぬ。

  • ヨシ・メケルバーグ氏はリージェンツ大学ロンドン校教授(国際関係論)。国際関係論および社会科学カリキュラムの責任者を務める。また、王立国際問題研究所中東・北アフリカプログラム準フェロー。世界の紙媒体・電子媒体両方に定期的に寄稿している。ツイッター:@Ymekelberg
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