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サウジアラビア王国が石油大臣を長く務めたヤマニを追悼

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24 Feb 2021 11:02:35 GMT9
24 Feb 2021 11:02:35 GMT9
  • 裁判官の息子はメッカ出身で、1970年代の世界市場を動揺させた禁輸のキーパーソンであった

Rawan Radwan

ジッダ:アハマド・ザキ・ヤマニはサウジアラビアで長く石油大臣を務め、1973年のアラブ・イスラエル戦争後の石油禁輸における重要人物であった。

ヤマニは1962年に、OPECの創設メンバーであるAbdullah Tarikiの後任として、石油大臣になった。

1974年の東京でのアハマド・ザキ・ヤマニ。1973年の初のオイルショックの中心的存在であったヤマニは90歳でこの世を去った。(AFP/File)

メッカのイスラム学者で裁判官の息子として、1930年6月30日に生を受けたヤマニは、カイロ大学に学び、ニューヨーク大学・ロー・スクールを卒業後、ハーバード・ロー・スクールで修士号を取得した。

彼はサウジアラビア王国の石油産業の国営化を指導したことで、1980年には完全な国営化を果たし、OPECの発展に重要な役割を担った。

1975年には、ヤマニと他の石油大臣は、カルロス・ザ・ジャッカルとして知られるベネズエラ人テロリストであるイリイチ・ラミレス・サンチェスによって、ウィーンで行われたOPEC会議において人質にされた。彼の目的は、ヤマニとイランの大臣Jamshid Amouzegarをバグダッドで殺すことにあった。人質らは、最終的には交渉の末、アルジェで解放された。

湾岸石油大臣と西欧諸国代表は、1973年10月にウィーンで、石油生産国によって要求された価格上昇について協議した。アハマド・ザキ・ヤマニは左から2番目である。(AP/File)

石油価格が1985年の後半のピーク時である約51ドルから1986年初頭の約10ドルに下がり始めたとき、サウジアラビアは価格を安定させるために生産削減を行ったが、それは歳入とマーケットシェアに代償を払った。ヤマニはその年、副大臣であったヒシャーム・ナーゼルに大臣の席を譲ることになった。

シェール油が少し知られはじめ、再生可能エネルギーが始まったばかりのころの2000年のインタビューで、ヤマニは周知のとおり、テクノロジーが石油消費量を削減し、OPEC外からの産出が増加すると予言した。「石器時代は、石を使い果たすことによって終わることはなかったが、石油時代は、石油を使い果たすよりずっと以前に終わることになるだろう」と彼は述べた。

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