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2021年度ハッジ:「ホスピタリティの街」としての評判を獲得してきたジェッダ

サウジアラビア・ジェッダの昔の眺め。Girardet after Lejean作、1860年パリLe Tour du Mondeに掲載。(Shutterstock)
サウジアラビア・ジェッダの昔の眺め。Girardet after Lejean作、1860年パリLe Tour du Mondeに掲載。(Shutterstock)
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18 Jul 2021 11:07:56 GMT9
18 Jul 2021 11:07:56 GMT9
  • 紅海沿岸の港町ジェッダは何世紀にもわたり困難な旅路をたどる巡礼者に快適さと友情を提供してきた
  • ジェッダと巡礼者の特別な絆がジェッダの街としてのあり方、建築、生活様式を形作っている

ラワン・ラドワン

ジェッダ:ハッジは何世紀にもわたり、何百万人ものイスラム教徒にとって聖地メッカを訪れる一生に一度の経験であり続けてきた。かつて、巡礼の旅は困難を伴うことが多かった。しかし多くの場合最初の立ち寄り先となるジェッダに到着した巡礼者は、ジェッダの住民の名高いホスピタリティのおかげで常に快適さや友情を享受してきた。

紅海沿岸の港町ジェッダは1300年以上にわたりハッジおよびウムラと切っても切れないつながりを持っている。預言者ムハンマドの教友カリフ・ウスマーン・イブン・アッファーンは674年、ジェッダがメッカ・メディナに向かう巡礼者のための玄関口となるよう命じた。

以来、ジェッダはサウジアラビア王国による細心の主導の下、この崇高な目的を果たしてきた。王国は、ジェッダから東に40マイルのメッカ、そして北に220マイルのメディナに向かう巡礼者の移動、宿泊、快適性を支えるためにたゆまぬ努力を注いでいる。

イスラム教2大聖地への玄関口であるジェッダは、聖なる巡礼のために世界中からやってくる何世代ものイスラム教徒に食事や宿泊を提供してきた。しかし、この街の魅力は単に宿や食事に留まらない。ジェッダを訪れる巡礼者は昔から心のこもったホスピタリティ、連帯、友情をもって迎えられてきた―これらはジェッダの人々が誇る、今なお続く伝統だ。

メディナの家族はしばしば「ムザワリーン」(Muzawareen)と呼ばれる―アラビア語で訪問を意味する ”zeraya”が由来で、モスクや預言者の墓を訪れる巡礼者を家に迎え入れる務めを受け継いでいるという意味合いを持つ。

一方、メッカの家族は「ムタウェフィーン」(Mutawefeen)と呼ばれ、これはハッジ・ウムラ期間中に行われる儀式の一つである ”tawaf” から来ている。これもまた、訪問者を案内するという伝統的な役割を意味している。

同様に、ジェッダの人々は “Wukalaa” の名でも知られる。海路で到着する巡礼者にエージェントとして支援を提供する役割を称してのことだ。

1939年、ジェッダの街の眺め。車が写っている。(写真:Ullstein Bild、ゲッティイメージズ)

昔は、巡礼者を乗せた大型船は紅海沖に錨を下ろし、地元のサムブークやダウ等のより小ぶりな木造船が巡礼者を岸まで連れていった。それから各エージェントが宿へと案内した。

地元の歴史学者であり古都ジェッダの長年の住民であるアハメド・バディーブ氏は、ジェッダの人々と巡礼者の間の特別な結びつきがこの街のあり方のみならず生活様式をも形成したと言う。

「陸路で到着する巡礼者はごくわずかでした」と、バディーブ氏はアラブニュースに語った。「あちこちからハッジ巡礼者が大きな船で運び込まれ、ジェッダに宿はありませんでした」

「街の人々は巡礼者に自宅を宿泊場所として提供し、巡礼者は家族の一員となって関係を構築しました。客が故郷に帰ってからも連絡を取り合いました。ジェッダでの自分の家ができたという感覚が生まれるからです」

通常家の所有者はマビート(mabeet)と呼ばれる屋上の寝室で休み、巡礼者には1階のメガド(megad、居間)を寝室として提供した。

ハッジ巡礼者の旅は最長4カ月にも及ぶが、通常はジェッダに数日滞在し、その後エージェントが手配したメッカやメディナへと旅を続ける。そのため、巡礼者の旅路においてジェッダは通常は短期間立ち寄る場所であった。

「巡礼者がメッカへと発つ前に食料や服、日用品などの持ち物を準備するのに数日かかったのです」と、バディーブ氏は語る。

「巡礼者の荷物を運ぶためにラクダがレンタルされ、時には女性の移動のためにハウダ(ラクダの背に乗せる座席)も持ち込まれました。メッカまで1日かかりました」

巡礼者のジェッダでの滞在期間はジェッダの「ワキール」(wakeel、エージェント)とメッカで巡礼者の世話をする「ムタウィフ」(mutawif)との間の取り決めにより様々に異なった。

「ジェッダの人口はハッジを迎えるたびに飛躍的に増えました」とバディーブ氏は付け加えた。「ハッジは市の経済成長に貢献するとともに、巡礼者にとっても助けとなりました。迎え入れてくれる街の人々に商品やスパイスを売ることができたからです」

ハッジは地元経済の振興だけでなく、ジェッダの建築の発展も助けました。古都ジェッダの裕福な家族は多くの巡礼者を迎える、階数を多くすることが一般的になったと歴史学者らは考えている。7階まである家もみられた。また特別な用途のための部屋をいくつか設け、ローシャンという突き出たバルコニーもよく作られた。建物が高く装飾が豪華なほど、家の住民のステータスも高いというわけだ。

家の所有者は高くそびえ立つ建物の中に、迎える巡礼者のための部屋を準備した。客には通常1階のメガドという部屋が与えられ、マットや枕が用意された。

1976年:ジェッダ港からメッカに向かうチャーター船のデッキに乗ったインドネシア人巡礼者一行。(写真:Keystone・ゲッティイメージズ)

「座る」という意味の言葉が由来のメガドは、通常親戚や親しい友人を迎えるために使う大部屋だ。巡礼者の寝室は下の階に設けられた一方、家族は上の階に移動し、通常1階に設けられたキッチンで料理を作り、客に提供した。

「巡礼者がジェッダに到着した頃には、長旅で食料も尽きていました」とバビーブ氏は言う。「到着した瞬間から出発するときまで、必要なすべてのものが提供されました」

「特定の国や地域から来る巡礼者は通常自国のエージェントが手配した特定の一家の家に滞在しました。この関係を通じて信頼関係が構築され、巡礼が終わるまでお金や持ち物を安全に保管してもらうことができました」

巡礼者の数が年々着実に増えるとともに、旧市街で宿を見つけることはますます困難となった。全員が安全に宿泊し、面倒を見てもらえるよう、サウジ当局は新たな専門施設を建設する必要性があると認識した。

1950年、サウジの建国者アブドゥルアズィーズ国王は、ハッジに向かう巡礼者の70パーセントが入国するジェッダ・イスラミック港の近くに「巡礼者のための街」の建設を命じた。1971年の時点では、この「街の中の街」には病院、商店、モスク他の施設を含む27軒の建物が立ち並んでいた。

その後同様の施設がさらに建設され、旧市街の東には巡礼者2,000人を収容可能なもの、旧空港近くには1980年代中期には30,000人を収容できたものもあった。

時代は変わり、ジェッダの家族は昔のように自宅に巡礼者を宿泊させることはなくなったが、何世紀にもわたりジェッダの住民を特徴づけてきた温かな歓迎ともてなしを、今も変わらず提供し続けている。

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