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サウジアラビアでより多く発見された砂漠の「カイト」と深まる謎

「カイト」と呼ばれるストーン・サークルや構造物は、主にサウジアラビアの西部で見つかっている。空からの調査で、ナフード砂漠の砂の間にもそれが見つかっている。(提供)
「カイト」と呼ばれるストーン・サークルや構造物は、主にサウジアラビアの西部で見つかっている。空からの調査で、ナフード砂漠の砂の間にもそれが見つかっている。(提供)
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06 Nov 2021 05:11:53 GMT9
06 Nov 2021 05:11:53 GMT9
  • ハーイルの砂漠の「カイト」が、貿易ルート、道しるべ、信仰の場、埋葬場所などとして使われていたと見られ、アラビア半島の先住民の活動に光を当てている。

タレック・アル・タカフィ

メッカ: メディナの東側のハーイル地域に入ったエリアで、より多くの砂漠の「カイト」が発見され、アラビア半島の古代砂漠文明について謎が深まっている。「カイト」と呼ばれるストーン・サークルや構造物は主にサウジアラビアの西部で見つかっている。空からの調査で、ナフード砂漠の砂に埋もれたものも見つかっている。

新石器時代のものと考えられるこれらの多角形、じょうご型、三角形などの構造物は

主に西部のハラット・カイバル(Harrat Khaybar)火山地帯に集中している。その一部は紀元前4から7世紀にまで遡る。ハーイルの構造物は、ハーイル北西部の町シュウェイミス(Shuwaimis)近くのカー・アル・シバク(Qaa Al-Sibaq)で見つかっている。

アルメニア、サウジアラビア、ヨルダンとカザフスタンで5,800以上の砂漠の「カイト」が見つかっており、最も多いシリアでは2,500個発見されている。サウジアラビアの広大な砂漠の秘宝は今も隠されたまま誰かの発見を待っている。

砂漠の「カイト」は洗練され技術的に優れた構造物で、現在でもその用途は解明されていない。

キングサウード大学の古代史専門のサルマ・ハウサウィ教授はアラブニュースに、サウジアラビア中にこのようなストーン・サークル、「カイト」や他の構造物が数多く点在していると話した。

多くの砂漠の「カイト」がメディナの北側の地域(Khaybar、Fadak、AlUla)で見つかっている。それら大きな構造物の形は、円、三角形、楕円、持ち上げられた石、積み上げられた石、四角形や弓状など様々だ。

サルマ・ハウサウィ教授は、カイトは繋がったり繋がっていなかったりする幾何学的形であると話した。建物の一部である場合もあればそうでない場合もある。大きさや形の一定しない少しずつ積み上げられた石の場合もある。

「一部の三角形には大小の、そして空洞になっている基盤があり、それは並行して連続しており頂点で向き合っています。また、円には中心に点のあるもの、空洞の点になっているもの、イレギュラーな形、平なもの、そして石が重なっているものがあります。他にも、真ん中に四角形のある円、大小の楕円形、円や四角と重なっている楕円、イレギュラーな四角、空洞やイレギュラーな形の長方形、積み重なっている長方形などがあります」と彼女は話した。

また「いくつかの例では、円の真ん中や端に点があったり、建物の周りと円の周りと直線に点があったり、点がジグザグやパラレル、繋がっていたり別々になっていたりするアーチ状になっています。また不定形の形もあります」とサルマ・ハウサウィ教授は付け加えた。

1976年に行われた考古学の調査では、これらの「カイト」がWadi Sarhanの北部からハーイル地域まで広がっていることが分かった。1年後には、南のAl-Kahifiya地域にも広がっていることが分かった。「カイト」の分布は、形や構造に与える環境の影響と地域による違いを明らかにした。

「地域によって形が違うのは、発見された場所に影響を受けるからです。貿易のルートであったり、キャラバンのための道標、あるいは信仰の場、居住地域のしるし、埋葬場所、狩りの場所だったりした可能性があるのです」と彼女は言った。

サルマ・ハウサウィ教授はまた、これらのサークルや「カイト」が、Khaybar、Fadak、AlUla、そしてハーイルからメッカまで、オアシス、貯水池や居住地の周りに集まっていることは、特にシルクロードがアラビア半島北部でペルシャからの二番目の道に繋がっていたことから、これらがキャラバンの休憩地であったことを示していると指摘した。

サルマ・ハウサウィ教授によると、道はサマルカンドを離れるとペルシャに入り、マリの分岐点に差し掛かる。その後ルートはTifsonへ行き、メソポタミアのユーフラテス川に突き当たり、その後パルミラに向かい、ヨーロッパまで広がる地中海沿岸部に入るという。

「シルクロードの商人がアラビア半島の北部のルートを好んだのは、アラビア半島北部の住民がキャラバンに安全を提供したこと、また地上の道がより通りやすく、交通の便利がよく、キャラバンにとってより安全だったからです」とサルマ・ハウサウィ教授は言った。

彼女はまた、南の道はエジプトのキナの港から出発し、ハドラマウト王国の都シャブワに向かいそこから現在イエメンとなっているカタバニア、シーバ、メインなど南部の王国を通って伸びていたと指摘する。

主要な商業用道路はナジュラーンに到達し、そこから2つに分かれ、その一つは 紅海沿岸に沿い、TathleethとBishaを通って北部と北西部に向かう。そこから分岐した道がメッカに向かい、主要道路はメディナへと続き、紀元前1世紀前はデナンとLehyanへ向かった。その後ルートはアルヒジュルへ向かうようになる。

サルマ・ハウサウィ教授によると、アメリカの研究で、アル・ウラーで見つかった「カイト」は、7,000年以上前のギザのピラミッドとイギリスのストーンヘンジよりも古いことが明らかになったという。

「これらのサークルや「カイト」は、アラビア半島の古代文明の技術が進んでいたこと、そしてサウジアラビアの土地の歴史が非常に古いことを反映しています」と彼女は話した。

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