Since 1975
日本語で読むアラビアのニュース
  • facebook
  • twitter
  • Home
  • 芸術と文化
  • イマーム・ムハンマド・ビン・サウード氏の統治はいかにしてディルイーヤの文化と教育を復興させたのか

イマーム・ムハンマド・ビン・サウード氏の統治はいかにしてディルイーヤの文化と教育を復興させたのか

Short Url:
22 Feb 2023 04:02:05 GMT9
22 Feb 2023 04:02:05 GMT9
  • ムハンマド‧ビン‧サウード氏の治世は、ディルイーヤが教育の豊かさの指標となる時代であった
  • ディルイーヤには何百件もの学校やモスクが建てられ、第一次サウード王国全体に知識を広めた

ナダ‧アルトゥルキ 

リヤド:教育は人類が持つもっとも強力な手段であり、国力や生活の質を左右し、さらには世界を変えることさえできると、一般的に信じられている。18世紀初頭に第一次サウード王国を樹立した偉大なイマーム‧ムハンマド‧ビン‧サウード氏の時代においても、そのメッセージが失われることはなかった。

イマーム氏のビジョンは変化と進化に基づいていたため、教育と文化の復興がその鍵であった。イマーム氏は荒廃した地域から、革新的な学習方法を開発し、草の根の活動を盛んにするための安全を提供し、ディルイーヤをルネッサンス時代の教育の基盤とすることで地域を統合した。

第一次サウード王国が誕生した、歴史の長いディルイーヤは、1446年にサウード家の前身であるマニ家のアール‧ムライディ王子の手に渡り、すでに独自の発展を遂げつつあった。 

サウジアラビアの歴史家で研究者のファイサル‧アルマ氏はアラブニュースの取材に対し、「その時代におけるディルイーヤの科学的‧教育的側面は、ディルイーヤ住民にとって十分な水準にありました」と語った。

「けれども、1727年にイマーム‧ムハンマド‧ビン‧サウード氏が第一次サウード王国を樹立すると、アラビアをひとつの国家とする建国‧併合、そして地域に安全と安定を強制するという統一性からなる、国家の統一を根本的な要因として、大きな発展がさまざまな分野で現れ始めました」

これらの発展の最前線にあったのは、第一次サウード王国の樹立に不可欠な柱としての教育であった。イマーム氏は、ディルイーヤの学問の啓蒙の拠点としてアル‧ブジャイリ地区に焦点を合わせ、当時の主要な教育機関であった学校やモスクを何百件も建設した。

イマーム氏は宿泊施設や食事など、教育のためのあらゆる手段を提供することを心がけ、多くの学者や知識を求める人々をこの地に引き付けた。 

アルマ氏は、「その目的は人々や若者に投資することであり、当時存在していた幹部を育成することでした」と述べている。

「教育のレベルは、若者が読み書きを教わる初級レベルの本から、コーランを暗記したり微積分の原則を学んだりすることまで含まれていました」

初期段階の教育は「カタアティーブ(kataatiib)」という専用スペースで行われ、、そこで読み書きをはじめ、コーラン、イスラム科学、数学、アラビア語の基礎などを学ぶことができた。

子どもたちは実社会を意識できるようになり次第、カタアティーブに送り込まれ、教師がその指導を行った。

導師たち自身も講義や授業を行うことで教育に貢献し、一方、彼らの評議会では常に議論が交わされた。

生徒たちはその後、高等教育の段階に進み、科学や芸術のテーマをおもにモスクの中で深く掘り下げていくことになるが、それは高等教育とよく似ているものであった。

製本工芸品において書道家は大きな財産であったため、学生の間で書道は人気があった。学生たちは各自の学習ボードに字を書き、ユニークで適切な技術がある者はイマーム‧イブン‧サウード氏に作品を披露する機会を与えられた。

「導師は良い筆跡を褒め称え、自らこの仕事を監督していました。つまりこの国とその指導者たちは、教育と文化の分野に熱心であったのです」とアルマ氏は述べている。 

現代の我々の歴史認識では、その教育制度の大きな民主化と女性への支援があまり強調されていない。

「(国家は)当時、女性を教育し、書き方を教えることに熱心で、(教育を)特定の階級に限定しませんでした。男子を教える男性の教育者と同様に、女性にも女性の教育者がいて、彼女たちが詩人や作家になるのを手伝ったのです」とアルマ氏は付け加えた。

教育制度が発展するにつれて、芸術性や道具も発展していった。読み書きへの関心が高まるにつれ、ウィラカ(wiraqah)という専門職が表面化した。

ワラク(warraq)とは、書物の筆写を専門に行う書記であり、ディルイーヤの人口のかなりの部分を占めていた。今日の印刷業者の先駆けである。

高貴ではあるが身近で、特定のグループや部門に限定されない仕事であり、アフマド‧アル‧マルシャディ氏、アブドゥラー‧イブン‧ガニム氏、アブドル‧ラーマン‧イッサ氏など、多くの人々がその独特の筆跡で名声や人気を得た。

当時のディルイーヤで特別な書体だったナスク(Naskh)とアル·レカ(Al-Reqa)は、ナジュド地方でもっとも一般的な文字であり、葦で作られたペンで書かれていた。筆記者は葦のペンの耐久性に合わせて、白紙で受け取った紙に糸で手作業で裏打ちをしたのである。

ナジュド地方では、タマリスクを中心とした木材で、作家にとって非常に貴重なインク壺が製造された。アル‧ミダド(al midad)などさまざまな種類のインクも製造された。

「書物への関心は、もはや単に本を手に入れることや書道だけにとどまらず、写本そのものに及んでいたのです」とアルマ氏は述べている。

「文字の色だけでなく、写本の美学が現れ始めたのです。おもに使用されていたのは黒でしたが、緑、赤、黄色など、さまざまな色が使われるようになりました」

「これらの写本を装飾して美しくするために、三角形、円、十字線など、さまざまな幾何学的な形が用いられました。写本の上部は花で飾られ、より魅力的なものとなりました」

また、アラビア中央にあり貿易やメッカ巡礼のルートに位置することからも重要な役割を果たした。このため、この地域の教育が強化され、科学者がその地域を訪れ、人々と出会い、知識を交換するようになった。

導師による治世は、生活の質を高め、第一サウジ国家全体に知識を広める上で、不可欠な柱であった。統合されたことによって、ルネッサンス時代における教育への渇望が癒され、ディルイーヤは教育的な豊かさの指標となり、アラブ人が一流の学者であるという歴史的遺産を継承することになったのである。

特に人気
オススメ

return to top