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カナダはいかにしてG7を促し、その視野を広げさせたのか

新型コロナウイルス感染拡大の状況下にあるカナダのバンフの街頭。3月に開かれた記者会見でジャスティン・トルドー首相は、各国首脳が合意したコロナ対策について語った。(シャッターストック)
新型コロナウイルス感染拡大の状況下にあるカナダのバンフの街頭。3月に開かれた記者会見でジャスティン・トルドー首相は、各国首脳が合意したコロナ対策について語った。(シャッターストック)
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17 Nov 2020 09:11:32 GMT9
17 Nov 2020 09:11:32 GMT9
  • カナダは、G20を現在のような開かれたグループにするために力を尽くした。

モー・ガノン

ドバイ――「G20が物語っているのは、我々すべてがここに共にあるということだ」。耳馴染みのある表現だろうか?もしそうなら、その理由は、「我々すべてがここに共にある」というのは、2020年の新型コロナウイルス・パンデミックのキャッチフレーズの一つになっているからである。

とはいえ、この引用は実際、コロナウイルスより前のものだ。2018年、G20の父と称されることもあるポール・マーティン氏が放った言葉なのだ。マーティン氏はカナダ自由党に所属し、2003年から06年まで首相を務めた人物である。

マーティン氏はカナダ財務相だった1990年代、先進7か国(G7)について考えをめぐらせ、もっと多くの国が、このいわゆる世界の先進経済大国のためのフォーラムに招待されるべきであるとの思いに至った。(カナダは1976年、ほとんど後からの思い付きで参加を求められたのだが、それについては後に詳しく触れる)。

マーティンは、米財務省の財務長官だったローレンス・サマーズ氏に対し、G7の参加拡大についての話をした。二人は候補国リストを作成してG7に提示した後、G7に類似した経済担当相によるグループとしてのG20が1999年に創設され、マーティン氏がその最初の議長になった。

2000年にモントリオールで開かれたG20会議の席上、カナダは参加者の資格を財務担当相よりも拡大するよう提唱した。グローバル化に関するモントリオールでの合意では、経済成長の恩恵がもっと広く共有され、貧しい国がグローバル化のコストから保護されるべきであることが確認された。

「私の考えでは、G20は不可欠なツールだ。なぜなら、G20はその経済状態を問わず、個々の地域の力を代表するからだ」。マーティン氏は国際ガバナンス・イノベー・ションセンターのウェブサイトで、G20の歴史に関するインタビューに答えてこのように述べた。

「私は、G20を首脳レベルの会議に格上げしようと懸命に努力した。私は既に、財務担当相のレベルでの会議を創立したことに関わってもいた」。マーティンはこう述べた。「米国を除き、皆が賛成した。私は他の何人かのメンバーと同様、国の首脳レベルに格上げすることは、何らかの危機をもたらすと確信していた。その危機とはまさに、2008年の経済危機としてあらわれたのだ」

少数与党の自由党が2006年の総選挙で敗れた後、マーティン氏は首相の座を降りた。非常に皮肉なことにマーティン氏は、G20サミット恒例の集合写真で他の首脳と共にポーズをとることができなかった。2008年にG20が首脳レベルの会議に格上げになり、同年11月に当時の世界金融危機に対応する形でワシントンで最初のサミットが開かれるまでには、保守党のスティーヴン・ハーパー氏がカナダの首相になっていた。

カナダのジャスティン・トルドー首相

世界経済が不況から立ち直ろうとしていた2010年、ホスト国カナダのトロントで開かれたG20サミットの議長を務めたのはハーパー氏だった。この会議は比較的平穏に終わったが、2014年に豪州で開かれたサミットでは、ハーパー氏が波紋を投じた。当時のロシアによるウクライナのクリミア併合に対し、反対の態度を明確にしたのだ。報道によると、ハーパー氏がロシアのプーチン大統領に対し、握手を交わしながら「ウクライナから出ていきなさい」と発言した後、プーチン氏はサミットを早めに切り上げて立ち去ってしまった。

この態度は、ハーパー氏自身の見識からすればとんでもないことのように見えた。2009年に米国のピッツバーグで開かれたサミットでは、彼は次のように述べてその見識を披露していたのだ。「カナダは変化をもたらせるほどに大きな国だが、誰かを脅かすほどに大きくはない。その良識は適切に使われれば、大きな財産になる」

その財産が適切に使われたからこそ、カナダは長い間、サミットというパーティーに招待され続けてきたのだ。

ピエール・トルドー氏はカナダ首相だったころ、石油危機への対応策について話し合うために1975年に開かれた米国、英国、フランス、イタリア、西ドイツ、日本のG6会議に、自分を招待するよう強硬に主張していた。当初は無視されていたが、カナダはその1年後に参加することになり、G6はG7になった。そのことが、後に参加国の拡大を推し進める原点になったと言っても差し支えないように思える。

1976年のG7サミットでピエール・トルドー氏は、サミットの成功は経済危機の解決を超えて測られるべきであると以下のように述べ、既にグループの目的を拡張しようとしていた。「サミットの成功とは、我々が民主主義社会における人々の振る舞いに、そしておそらく同様に重要なこととして、外部から我々を見ている人々の振る舞いに対し、そうした人々が、我々が享受しているタイプの経済的および政治的自由のおかげで自分たちの問題を解決できるという自信を得られるような方法を通して影響を与えられるかどうかによって判断されるのだ」

我々は、自分たちの国境を越えて影響を与えられるように、共に協力する必要がある。

カナダのジャスティン・トルドー首相

カナダのジャスティン・トルドー現首相は、彼の父親がこうした言葉を述べた時、まだ少年に過ぎなかった。時代を早送りして2015年11月、トルコのアンタルヤで開かれたG20サミットにおいて、カナダ首相に就任して2週間足らずジャスティン・トルドー氏が、世界の檜舞台でのデビューの日を慌ただしく迎えた。そして、この若きリーダーは、米国のバラク・オバマ前大統領、後にエマニュエル・マクロン大統領とこのようなサミットで“男の友情”を分かち合った一方、米国のドナルド・トランプ大統領やブラジルのジャイール・ボルソナーロ大統領との不器用な交流についていろいろ言われることになった。

しかしながら、カナダは、橋渡し役としての世界的評価を保持している。このことはおそらく、もう一人の自由党所属の首相だったレスター・B・ピアソンによって最もうまく例示されるだろう。彼は、スエズ危機の時に最初の国連平和維持軍の創設に貢献したことが評価され、1957年にノーベル平和賞を受賞した。

この橋渡しの精神は去る3月、異例のバーチャルなG20サミットにおいて、ジャスティン・トルドー氏により示された。新型コロナウイルス感染拡大の状況下、サウジアラビアのサルマーン国王の呼びかけにより開かれたものだ。

このサミット後の記者会見の席上、トルドー氏は、各国首脳が合意したコロナウイルス対策について語った。この対策には、世界経済に対する5兆ドルの資金供給や、国連や世界保健機関などの組織を通じて経済的に脆弱な国々を支援する誓約が含まれていた。

「我々は、自分たちの国境を越えて影響を与えられるように、共に協力する必要がある」。トルドー氏はこのように指摘した。

つまり、G20の創設者であるポール・マーティン氏が言ったように、「我々すべてがここに共にある」のである。

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