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パレスチナへのゴーサイン

ニッキー・マツモト氏。東京ドームで開催されたワールド・ベースボール・クラシックの日本対イスラエル戦で。(提供写真)
ニッキー・マツモト氏。東京ドームで開催されたワールド・ベースボール・クラシックの日本対イスラエル戦で。(提供写真)
日本の広島でパレスチナ解放を訴えるニッキー・マツモト氏。(提供写真)
日本の広島でパレスチナ解放を訴えるニッキー・マツモト氏。(提供写真)
2013年のパレスチナ祭りで行われたニッキー・マツモト氏とバンドのパフォーマンス。(提供写真)
2013年のパレスチナ祭りで行われたニッキー・マツモト氏とバンドのパフォーマンス。(提供写真)
エジプトのピラミッド前に立つニッキー・マツモト氏(右)とバンドメンバー。(提供写真)
エジプトのピラミッド前に立つニッキー・マツモト氏(右)とバンドメンバー。(提供写真)
ニッキー・マツモト氏(右)とバンドメンバー。(提供写真)
ニッキー・マツモト氏(右)とバンドメンバー。(提供写真)
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04 Nov 2021 04:11:24 GMT9
04 Nov 2021 04:11:24 GMT9

ナダル・サモーリ

中東は常にどこかが不安定であり、多くの日本人は「ストップサイン」だらけの場所というイメージを持っている。だが、ごくわずかな人々、とりわけ世界情勢の真実の探求に熱意を注いでいる人々は、中東が発する「ゴーサイン」を受け止めている。

休眠を示すストップサインとは対照的に、ゴーサインは絶え間なく動き、探求し、学び続けることにつながる。

57歳のニッキー・マツモト氏は、いろいろな仕事をし、起業することで、貧困と虐待を受けた子ども時代から立ち直れた。マツモト氏のキャリア形成と自己発見の道のりは決して一直線ではなかった。

「父親との関係は健全ではありませんでした。しょっちゅう殴られ、本を広げるたびにバカ呼ばわりされました。父の怒りは、学生時代に第二次世界大戦で自宅を爆撃されたことと関係するのかもしれません。米国の日本占領とその激しい弾圧を思うと、パレスチナ占領と暴力的な権力者に従わざるを得ない状況に共感するのです」とマツモト氏は言った。

日本の中都市、埼玉で生まれ育ったマツモト氏は、父親との関係に悩まされたことで故郷を離れて18歳で渡米し、後に人生を変える15年の旅に出たという。

「不意にいろいろな出自の人間が幾重にも積み重なった文化と人種のるつぼに投げ込まれました。人間の可能性に満ちた人生カタログを見つめ、日々そのページをバリバリめくるようになりました。目の前に世界が開けたのです」とマツモト氏は言い、さまざまな背景を持つ人々との出会いがあった米国での生活を振り返った。

米国でマツモト氏は歌ってギターを弾くミュージシャンになったが、その過程でいくつもの困難にぶつかった。そのひとつが人種差別だった。

「どこに行っても人種差別はあります。私も差別を受け、何人ものアメリカ人に日本人にギターが弾けるものか、やめろ、と言われました。私は自分のアイデンティティで闘い、自己イメージを開拓し、本当の自分と外から見た自分の違いについて自問しました」とマツモト氏は言った。

日本で米国の占領の結果を見てきた後に米国で差別に直面し、マツモト氏は政治問題への関心を高めた。特に、共感するパレスチナの大義には親しみを感じた。この間に、中東に内在する問題とその根本的原因について知ろうと、関連書籍で学び始めた。勉強を続ける中で、パレスチナについて訴えたい思いが次第に形になっていった。

「1981年に初めて渡米したとき、英語のクラスでレバノンの女性に会ったのを覚えています。彼女は、内戦とイスラエルのレバノン爆撃から逃れてきた話をしてくれました。もうひとつ心を動かされたのは、キャンパスでアラブ人の学生たちがエジプトのサダト大統領暗殺を掲げてデモをしているのを見たときです。それも中東情勢に興味を持つきっかけになりました」とマツモト氏は言った。

33歳になったマツモト氏は、両親との関係を修復するべく日本に戻る決意をする。しかし、かつて知り尽くしていた場所はもはや別世界に見え、よそ者になったように感じた。家族にしつこく非難され、自由がなくなったように思ったからだ。親とのつながりは再び崩れ、彼は家を出ざるを得なくなった。

「ホームレスになり、4カ月ほど公園や安宿を転々としました。銀行口座は空っぽで相談できる友達もいませんでした。生きるか死ぬかの状況でした」とマツモト氏は言った。

新たに基盤を築こうと、マツモト氏は起業に挑戦した。東京にある大使館をいくつも訪ね、ついにITエンジニアとしてメキシコ大使館と契約を結んだ。続いてスリランカ、インド、エジプトの大使館ともプロジェクト契約を結んだ。これらのプロジェクトを成し遂げたマツモト氏の事業は軌道に乗り始めた。

「それから、『パレスチナ総代表部』と呼ばれるところに行き、パレスチナ大使のワリード・シアム氏と親しくなりました。もう14年の付き合いです」とマツモト氏は振り返った。

今でこそ在宅勤務は当たり前になっているが、マツモト氏は18年前に自宅を拠点にIT事業を始めていた。それもしばらく路上生活を経て立ち上げたのだ。

「音楽業界で稼ぐのは簡単ではありません。そこで主にネットワーク構築やデータ設定などの技術支援を行うIT事業を始めました。今はそれが私の主な収入源になっています。この仕事のおかげで、ボランティアで自分の目的を果たすために必要な時間をつくれています」

この9年間、マツモト氏は毎年1回パレスチナを訪れてきた。そこで、パレスチナ人に励ましと支援の気持ちを届けるため、自分のバンドで音楽を演奏するなどの人道的活動をボランティアで行っている。

「2012年にバンドメンバー5人で初めてパレスチナに行きました。大歓迎を受けました。パレスチナの大使は私たちのパフォーマンスを気に入ってくれ、政府は宿泊費を出してくれました。また、日本政府からは航空券代を提供してもらいました。他の費用は自腹ですから、パレスチナでの演奏活動は持ち出しですが、愛ゆえにやりました」とマツモト氏は言った。

そして「私はアッバス大統領にもっとパレスチナを助ける、パレスチナ人に捧げる歌を書いて励ましたいと約束し、実行しました」と付け加えた。

2013年、マツモト氏はパレスチナのマフムード・アッバス大統領に会い、大統領官邸に招かれた。それから彼は6曲入りのCDを作り、タイトルを『Palestine On My Mind』とした。

すべてはマツモト氏の世界をもっと良い場所にしたいという願いから始まった。

「国々が衝突し、人々が憎み合っている状況はずっと変わりません。人を助けるためにできる限りのことをしたいと思いました」とマツモト氏は言った。

マツモト氏は英語で歌う。メッセージを世界じゅうに届けたいからだ。

「この35年、平和のために歌ってきました。音楽は人を動かし、行動を後押しします。パレスチナの問題は私たちみんなの大きな問題です」とマツモト氏は言った。

キャリアを積み重ねた今も、マツモト氏はホームレスだった日々を忘れることはない。コロナウイルス感染症でパレスチナに行けなくなったが、良いエネルギーを世界に与え続けたいという思いから夜中に頻繁に外に出て食事、飲み物、衣類を東京のホームレスの人々に無料で配るようになった。

「私は人を助けられるだけの時間とお金に恵まれています。非常に良い時機に日本を出ましたし、ホームレス生活をした経験も糧になっています。とても幸運だと思います」とマツモト氏は言った。

世界に希望が見えないときでも、マツモト氏のような人たちのおかげで人間の善意を思い出す。そして道徳的なバランスの確立を大切にする人を増やすことの必要性を改めて考えさせられる。

 

日本で生まれ育ったニッキー・マツモト氏は、いろいろな仕事をし、起業することで、貧困と虐待を受けた子ども時代から立ち直れた。彼は自分の事業を持つことで共感しているパレスチナの大義の支援活動を続けられている。

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