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老いた日本人過激派、岡本公三のイスラエル乱射事件後の長い人生

2022年5月30日、レバノン・ベイルート。パレスチナ人墓地内にある、パレスチナ支持の元死亡した日本人4人の慰霊碑を訪れ、支援者にポーズを取る元日本赤軍の岡本公三(74)。(ファイル・写真/AP)
2022年5月30日、レバノン・ベイルート。パレスチナ人墓地内にある、パレスチナ支持の元死亡した日本人4人の慰霊碑を訪れ、支援者にポーズを取る元日本赤軍の岡本公三(74)。(ファイル・写真/AP)
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01 Jun 2022 04:06:06 GMT9
01 Jun 2022 04:06:06 GMT9

岡本公三の人生は、1972年、イスラエルのロッド国際空港(現:ベン・グリオン国際空港)への自爆テロに参加し、26人の死者を出した時点で終わるはずだった。

しかし、それから半世紀、2度の服役を経て、彼はまだ生きている。レバノン最初で唯一の政治亡命者として、何不自由ない生活を送っているのである。

今は弱々しく、白髪になった岡本公三は、故郷日本では未だ指名手配中の身であるが、レバノンのパレスチナ難民キャンプでは民衆のヒーローのような存在である。

1972年5月30日、ローマ発のエールフランス便に搭乗した時、この日本赤軍(JRA)メンバーが偽造パスポートに記載した名義は「ナンバ ダイスケ」、1923年に皇太子裕仁親王の暗殺未遂事件を起こした難波大介から取られたものであった。

しかし、彼を訓練し、日本赤軍による攻撃を計画した左翼組織であるパレスチナ解放人民戦線(PFLP)では「アフマド」を名乗っていた。

PFLPによるハイジャック事件後、航空会社の乗客検査は強化されたが、預け入れ荷物の検査はまだほとんど行われていなかった。

岡本公三と共犯者2人は、テルアビブ近郊の、現在では警備の厳しいベン・グリオン国際空港で、何の問題もなく入国審査を通過していた。

彼らは手荷物受取のターンテーブルから荷物を受け取ると、アサルトライフルと手榴弾を取り出し、周囲への殺戮行為を開始した。

死亡した26人には、カナダ人1人とイスラエル人8人が含まれていた。

他の17人はすべてプエルトリコから来た、キリスト教の巡礼者であった。今日まで、毎年5月30日にプエルトリコの首都サンフアンで追悼式典が開かれている。

この虐殺は自爆テロとして計画されていた。3人の武装した日本人は全員、身元確認を困難にするために手榴弾で顔を破壊するつもりであった。

2人は死亡したが、岡本は負傷して逮捕された。

拘束された彼は、イスラエルの将校と交わしたとされる取引で、自決用の武器と引き換えに情報を提供する、という条件に騙し取られた。

注目された裁判の間、彼は一貫して死刑を主張し続けた。この刑罰は、イスラエルがナチスの戦争犯罪人アドルフ・アイヒマンに対して一度だけ実施されたものである。

「岡本は検察当局に協力的であった」と、国選弁護人のイスラエル人弁護士は語っていたと、学者のパトリシア・スタインホフ氏が1976年に述べている。

結局、彼は最終的に終身刑を宣告された。

岡本は1985年5月、大規模な捕虜交換により釈放された。彼は死んではいなかったが、かろうじて生きているように見えた。

リビアのトリポリ空港で撮影されたAFPの写真では、パレスチナの戦闘員が勝利を誇示しようと彼を肩に担ぎ上げているが、彼の目には生気が感じられない。

ベイルートのPFLP関係者で、岡本の宿泊、食事、健康管理などの世話をするアブ・ユセフ氏は、「解放されたとき、彼はまるで死体のようだった」と言う。

PFLPによれば、岡本はイスラエルの刑務所にいる間、独房で過ごし、犬のように地面から食べることを強制され、後ろ手に手錠をかけられていたという。

アブ・ユセフ氏がAFPのインタビューで語ったところによると、彼は釈放された後もずっと、食事の際にはテーブルの上に身を乗り出して、皿をきれいに舐めて食べ終えていた。

レバノンのベッカー高原にある日本赤軍のキャンプで数年過ごした後、岡本氏は1997年に偽造容疑で逮捕された。

東京からの圧力で他の4人の日本赤軍メンバーは2000年に引き渡されたが、岡本は親パレスチナ派による数週間のデモの後、釈放されて亡命を許された。

現在、岡本はPFLPの保護を受けながら暮らしている。数十年前のテロ事件以来、岡本の影響力は弱まってはいるが、同組織は彼に、過ぎ去った時代の年長者としての敬意を払っている。

月曜日に行われた50周年記念式典で、岡本は珍しく公の場に姿を現した。

ベイルートのシャティーラ・パレスチナ難民キャンプの傍らにある墓地まで、PFLPの武装集団が彼を連れて行った。

日本赤軍メンバー2人のための短い献花式の間、彼はカメラに向かって微笑み、Vサインをした後、警護されて帰っていった。

岡本は、南日本で、中流家庭の6人兄弟の末っ子として生まれた。幼少期は、パレスチナとの関わりは特に持っていない。

しかし、「今日まで彼はパレスチナのことを語り、占領者を否定してきた」とアブ・ユセフ氏は言う。

しかしながら、旅行ができないことを除けば、岡本公三は落ち着いた生活を送ってきた。

以前は1日3回、8本入りの小さなタバコを消費していたが、74歳になる彼は、最近になって禁煙した。

岡本は決まった時間に食事をし、テレビで『トムとジェリー』などのアニメを何時間も見て過ごす。

半隠遁生活に入っている岡本は、外界のことはほとんど知らない。

「彼はイスラエルや日本にとって、何の脅威にもならないでしょう」と、20年間日本の刑務所服役し、土曜日に出所したJRA創設者重信房子氏の娘である重信メイ氏は語った。

「しかし、日本人は毎年彼の引き渡しを要求しており、彼の身体的・精神的状態にもかかわらず、彼に注目が集まっています」と彼女はAFPに語った。

レバノンで育ち、岡本の状況をよく知る重信氏は、「彼の命が今も脅かされている可能性は捨てきれません」と語った。

AFP

 

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