
ドバイ:1月11日、南アフリカはハーグの国際司法裁判所(ICJ)に対し、ガザ地区で進行中のイスラエルの軍事作戦がジェノサイドに当たるかどうかの決定を下すよう要請した。イスラエルはこれに対し、南アフリカがハマスの「法的機関としての役割を担っている」と非難した。
しかし、南アフリカのパレスチナ人に対する支援は新しい現象ではない。長年にわたり、地理的および文化的な違いにもかかわらず、南アフリカ政府と市民社会はパレスチナの大義に揺るぎない支持を示してきた。
南アフリカの与党アフリカ民族会議(ANC)は、ガザ地区とヨルダン川西岸地区におけるイスラエルの政策を、1994年まで特別に指定された「ホームランド」での居住を黒人に強制していた、少数白人支配によるアパルトヘイト体制下の自国の歴史と長年同一視してきた。
南アフリカのナレディ・パンドール国際関係・協力大臣は11月7日の声明で、「今日、我々はパレスチナで民間人、民間インフラ、国連施設、その他脆弱な標的を狙って行われている戦争犯罪に対する嫌悪を表明し、世界の仲間入りをする」と述べた。
「これらの行為は、アパルトヘイトの下で生活していた南アフリカの黒人としての我々の経験を彷彿させる。これが、世界中の都市の人々と同様に、南アフリカ人が街頭に出て、ガザ地区とヨルダン川西岸地区で起きていることに対する怒りと懸念を表明する主たる理由のひとつだ。」
イスラエルは、10月7日の同国南部に対するハマスの攻撃に対抗して軍事作戦を開始した。10月7日の攻撃でこのパレスチナ武装勢力は、約1,200人(ほとんどが民間人)を殺害し、大勢の外国人を含む240人を人質に取った。
それ以降、イスラエル国防軍は、2007年からガザ地区を支配してきたハマスに対して、空と地上から猛烈な攻撃を展開し、ハマス保健省によると、2万5,000人以上のパレスチナ人が命を落とした。
戦争が始まってから、南アフリカ全土に連帯の象徴が出現した。ストリートアーティストがパレスチナ国旗の壁画を描き、イスラエルによるジェノサイドを非難する看板が建てられ、「Genocide IsREAL(ジェノサイドは現実だ)」や「#FreeGaza(#ガザに自由を)」といったスローガンが書かれたステッカーが配布された。
「南アフリカ人として、みな抑圧、妨害、アパルトヘイトを知っている」と、南アフリカの弁護士で活動家のライラ・サミラ・カーン氏はアラブニュースに語った。
「パレスチナは南アフリカの自由を求める戦いと結びつきがある。私は70年代に南アフリカ人の両親のもとオランダで生まれ、ライラ・カリドにちなんで名付けられた」と、彼女は有名なパレスチナ人活動家の名前を挙げて語った。
南アフリカは11月初旬にテルアビブから外交官を呼び戻した。同月下旬、議会はイスラエルとの外交関係をすべて停止し、プレトリアのイスラエル大使館を閉鎖することを可決した。その後、イスラエルは大使を召還した。
そして12月、南アフリカは、ジェノサイド条約に違反しているとしてイスラエルをICJに提訴し、国際的な注目を集めた。
「ガザ地区における破壊の規模、市民の住宅や民間人が標的にされていること、この戦争が子どもたちに対するものになっていることのすべてが、ジェノサイドの意図があると理解され、実際に実行されているということを明らかにしている」と、南アフリカ共和国弁護団のメンバー、テンベカ・ヌクカイトビ氏はICJで述べた。
「あらゆる形でパレスチナ人の生活を破壊することが、その明らかな意図だ。」
この訴訟は多くの西側諸国政府を苛立たせたが、南アフリカはトルコやマレーシアといった国やイスラム協力機構などの団体から賞賛を集め、これら国や団体もこの訴訟に加わった。
南アフリカにおけるパレスチナの大義の支持には、ANC が 1948 年から 1990 年代初頭まで支配的制度であったアパルトヘイトに対して、数十年にわたる独自の運動を展開していた時代にまで遡る深いルーツがある。
アパルトヘイト下では、少数派の白人が政治、ビジネス、土地所有、さらには市民生活のあらゆる面を支配し、人種を「分離しているが平等」とみなす厳しい人種隔離と差別の制度を強制した。
実際、その時代を生きた南アフリカの黒人たちは、自分たちの土地で疎外され、二級国民のように感じていたと語るが、それは占領地におけるパレスチナ人の感情と似ている。
「南アフリカ人として、私たちはパレスチナの闘争に深く関わっていると感じている」と、ケープタウン在住の南アフリカ人アーティスト、タニア・ピーターセン氏はアラブニュースに語った。
「私たちはアパルトヘイトと、アパルトヘイト後の社会における対処と生活に伴う惨状を理解し、認識している。」
一方、国際社会の多くが南アフリカのアパルトヘイト政策を嫌い、同国に制裁を課したにもかかわらず、イスラエルは白人少数派政府に武器と技術を供与し続けた。
ANCのパレスチナとの連帯は、数世紀にわたるヨーロッパの植民地支配を経て、複数のアフリカ諸国が独立を獲得するようになっていた1950年代と60年代にまで遡る。
アパルトヘイトに対する闘争中、さらにその後権力を手に入れても、ANCはパレスチナ解放機構(PLO)との緊密な関係を育んだ。
白人少数派の支配との戦いで27年間を刑務所で過ごし、アパルトヘイト後最初の南アフリカ大統領となったネルソン・マンデラ氏は、ヤーセル・アラファトPLO議長とも友好関係にあった。
マンデラ氏を権力の座に押し上げた南アフリカ初の人種差別のない選挙から1年経った1995年2月15日、新しく誕生した「虹の国」はパレスチナと正式な外交関係を確立した。
長年にわたり、ANCとPLOは互いの反植民地運動を支援し、武器の取引を行い、植民地化をなくすための戦略について相談してきた。
南アフリカのパレスチナへの絆と関与が強固になった重要な瞬間は、1990年にアラファト議長がマンデラ氏釈放からわずか2週間後に、ザンビアで同氏と会談を行った時であった。
その後マンデラ氏は、イスラエルとパレスチナ双方を訪問し、両者間の和平を訴えた。