ティール(レバノン):イスラエルとヒズボラの停戦は、長い間、夜明けになると木製の単発ボートを地中海に乗り上げてきた漁師たちを含め、レバノン南部の多くの人々に平穏な生活を取り戻す希望を金曜日にもたらした。
ヒズボラとの戦いの最後の2ヶ月間、イスラエルはレバノン南部に包囲網を敷き、この古代フェニキア時代の港にいた何百人もの漁師を陸に引き留め、彼らの生活と産業を根底から覆した。
破壊や移住に比べれば重要度は低いものの、港の包囲によって多くの人々は、サヤディエ(魚と米を魚醤で煮たもの)や、フムスやタブーレ、ファトゥーシュサラダなどのディップとともに食べる魚のフライやグリルといった伝統的なレバノン料理の重要な材料から切り離された。
魚の喪失は故郷との深い結びつきを傷つけたが、いまやレバノン南部の海岸での漁業再開の可能性が、明るい未来への希望を後押ししている。
金曜日、港の漁師たちが白や青や赤に塗られた小舟の網を捌く中、数隻のボートが海岸近くまで出て行った。
フセイン・スクマニさん(55歳)は金曜日、数日中に海に出ようと考えているが、事態の推移を見ているところだと語った。
彼は9月23日にイスラエルとヒズボラの戦争が劇的に激化して以来、出航する勇気はなかった。「恐怖と恐怖の日々だった。人生で最も困難な日々だった」
一週間前、無人爆撃機による空爆で、海岸で網の準備をしていた2人の若い漁師が死亡した。金曜日には、レバノン軍から、出漁する場合は自己責任で、と言われたと語った漁師もいた。
金曜日に海岸近くを航行した漁師の中には、ボラを詰めたプラスチックの箱2つを持って港に戻ってきたワリド・ダルウィッシュさんもいた。
ダルウィッシュさんは「今日が初めての出港だ」と言い、漁師たちは10月と11月の最盛期を逃してしまったと付け加えた。
「我々はそれを失った」と彼は言った。
イスラエル軍は10月、国境から50キロ(31マイル)の地域からのボートの立ち入りを禁止したが、警告がまだ有効かどうかは明らかにしていない。
スクマニさんによると、同港の270隻の漁船で働く700人の漁師のほとんどは、それ以来、心配して出航していないという。
港の周辺はキリスト教徒が多く住む地域で、ティールの他の地域に対する空爆の被害を免れた。
平和な時代には、港は主要な観光スポットであり、景色やレストラン、ビーチを目当てに訪れるレバノン人や外国人に愛されている。
金曜日、モハメド・ハムードさんは釣り竿を持ってティールの海岸を歩いた。
「この美しい場所に立っているだけで十分なんだ」と彼は白い砂浜を指差しながら言った。「釣りは僕にとってすべてなんだ」とハムードさんは付け加えた。彼は、包囲網に含まれていないシドンの北側の地域に何度か釣りに行った。
ティールの旧市場では、ギルバート・スピリドンさんが店内から、運ばれてきたばかりの魚を買い求める人々を眺めていた。戦前は、レバノン中の人々に魚を売るのに何時間もかかった。
「戦争が終わり、昔のような楽しい日々に戻ることを願うばかりです」と彼は言った。
AP