



チュニス:「革命によって、できないことはないということが示されました」とAmeni Ghimajiさんは、10年前にアラブの春の蜂起を引き起こした、チュニジアの抗議行動の勢いが良かった時代を思い出しながら言った。
チュニジアの独裁者ジン・アビディン・ベンアリが失脚したとき、彼女はまだ18歳だった。数人の冷酷な指導者が失脚し、数人が容赦なくしがみつき、数年にわたる大変動や紛争、内戦に国々が震えるのを目にした、中東と北アフリカで起きたデモの波の最初の犠牲者だった。
「私たちには将来の計画はありませんでしたが、確かなことが一つありました。何であれ、今よりは良くなるに違いない、ということです」とGhimajiさんは付け加えた。
彼女が、チュニスで行われた大規模な反政権集会で写真を撮られ、叫び、空中に拳を突き上げた数時間後、ベンアリは失脚した。
彼女の写真は1面を飾り、彼女は平和的な蜂起に参加する若者の偶像的イメージになった。
チュニジアの抗議行動は、2010年12月17日、貧しい露天商が絶望に打ちひしがれ、自分の体に火を付けたことをきっかけに起こった。
彼の衝撃的な自殺行為は、ベンアリの腐敗した縁故主義政権に怒り、新たな機会を渇望する若者たちの間で長年爆発寸前だった緊張に火を付けた。
4週間も経たないうちにベンアリは亡命し、23年間に及ぶ支配を終わらせた。抗議者らはベンアリの追放に勇気付けられ、他の場所に集まり始めた。
魔法の薬はない
今日、アラブ世界では、暴力や経済の破綻を招き、数百万人の難民を残し、混乱によって他の数え切れないほどの人々の人生を破滅したとして、2011年の蜂起が非難されている。
しかし、そこにいた人々にとって、初期のデモは高揚感と希望に満ちていた。
2011年1月14日、ソーシャルネットワークは、Abdennaceur Aouini弁護士が外出禁止令に反対し、チュニス中心部の象徴的な通りであるハビブ・ブルギバ通りに立ち、「ベンアリは逃げた!」と叫ぶ動画でいっぱいだった。
「『復讐』をしているように感じました。私は18歳の時から悩まされ、投獄されていました」と現在50歳のAouini氏は話した。
だが現在、同氏は「失望」していることを認めている。
「希望は常にあります。ですが、私は夢の中にいました。今は正気に戻っています」とAouini氏は付け加えた。
チュニジア人は政治的自由を勝ち取ったにもかかわらず、依然としてひどい失業、インフレ、不平等に直面している。
「人々はベンアリが去ることで事態は改善するだろうと思っていましたが、それには20年、30年掛かるでしょう」と弁護士で活動家のHoueida Anouar氏は述べた。
「私が生きている間に、その名に値する政治情勢となったチュニジアを見れるかどうかは分かりませんが、私は楽観的です」
リビアの革命は「必要だった」
チュニジアには、苦労して手にした憲法、欠陥があるが機能している議会制度、そして自由選挙がある一方で、民主主義に一時的に関心を示した後、国家による弾圧が再びエジプトを襲った。
「あれから10年、若い世代にはまだ希望があることが分かります。あの蜂起が起きた時には小さな子供だった世代です」と「権利と自由のためのエジプト委員会」のMohamed Lotfy事務局長(39)は述べた。
しかし、数千人がホスニ・ムバラク大統領の退陣と「パンと自由と尊厳」を求めてカイロや他の街を行進した、2011年「1月25日のあの夢を潰すために政府はできることを全てしています」
さらに悪いのは、リビア、イエメン、シリアの状況だ。最初は平和的だった蜂起が内戦を引き起こし、街は荒廃し、数十万人が死亡している。
しかし、10年前に独裁者ムアマル・カダフィに対する抗議行動に参加した、リビア人のMajdiさん(36)によると、そのようにして始まったのではない。
「私たちはチュニジアやエジプトで起きたことを見ていました」と彼は述べた。「私たちの番でした。変化は避けられませんでした」
抗議者らの要求は「自由と正義と希望を持っていない若者たちのための、もう少し多くの自由、いくらかの正義、そしていくらかの希望」だったという。
初めは「政権転覆の話はありませんでした」
しかし、現政権は軍隊を動員するという残忍な対応をした。
2011年10月、カダフィが逃亡中に殺害されたことで、リビアは十年にわたる暴力的混乱に陥った。
「後から考えると、カダフィが国家の基礎にどれほどの損害を与えたか、私たちは知らなかったと思います」とMajdiさんは述べた。
だが、彼は後悔していないと主張している。革命は「必要でしたし、今でもそれを信じています」
「シリア人は改革を求めていただけだった」
「私たちは改革を求めていただけでした」とシリア人のDahnounさんは述べた。
彼は、シリアで初めてのバッシャール・アサド大統領に対する抗議行動のいくつかに参加したが、「分裂・戦闘・戦争を求めるシュプレヒコールはありませんでした」と思い出を語った。「それどころか、とても平和的でした」
「『自由、自由、自由』と連呼していましたが、他には何も叫んでいなかったことを覚えています」とDahnounさんはAFPに対し、イドリブ市から電話で語った。
しかし、シリア政府軍によって、禁止されていた化学兵器が何度か使用される(シリア政府は容疑を否認している)など、その運動は絶え間のない暴力に見舞われた。
「その最初の抗議行動の間、私たちは政府側の暴漢や治安部隊に攻撃されました」と当時15歳だったDahnounさんは言う。
リビアと同様に、シリアの状況の悪化は外国を引き寄せ、影響力を強め、地域の混乱を最小限に抑える機会を捉えた。
「私たちは外国に弄ばれ、今はシリア人は発言権を持たず、外部のプレイヤーが決定権を持ってます」と彼は述べた。
「希望はありません……シリアはもう私たちのものではありません」
2015年にロシアがシリア政府を支援するために行った壊滅的な介入により、シリア政府は反政府組織が支配していた領土の一部を取り戻し、今ではアサドが国土の7割以上を支配している。
だが、ひどい経済危機は西洋諸国の制裁によってさらに悪化し、政府は、革命を支持しなかった人々を含むあらゆる方面から批判されている。
シリア革命の最初のデモが始まったダルアーにいる、教師のAbu Hamzaさんは、人々は現政権に「忠誠心がない」と言う。
「空腹になると恐怖はなくなります」と3児の父である彼はAFPに対し、ダルアーから電話で話した。
「どちらにしても私は死にます。戦車か飢餓のどちらに殺されるでしょう」
AFP