

ジョナサン・ゴナール
フランチェスコ・ボンガッラ
ロンドン・ローマ: フランシスコ教皇の歴史的なイラク訪問を目にするため、どれだけ多くのイラク人キリスト教徒が群がるかは誰にも予想がつかない。 それはキリスト教の信仰の初期の日までさかのぼることができる国であるイラクに、どれだけのキリスト教徒が残っているのか、誰も正確には知らないという単純な理由からである。
2003年の米国主導による侵攻後、長年にわたる内紛に悩まされてきたイラクは、1997年以来、世論調査を実施していない。
新型コロナウイルスのパンデミックが世界を襲った年であった2020年に計画されていたものの、実施されなかった。しかし、イラクのキリスト教徒の推定数は時代によってばらつきがあるものの、共通して言えることは、近代になって、世界で最も古いキリスト教コミュニティーの一つであるイラクのキリスト教徒の数は、増大する不安と迫害により、着実に減少しているということである。
現在のイラクとなっているチグリス川とユーフラテス川に挟まれた肥沃な平野であるメソポタミアは、近代文明が最初に栄えた場所である。
そして6000年以上前に、文字、農業、世界初の大都市が栄えた土地でもあるが、イラクの地はキリスト教に関連する遺跡にも恵まれており、イラクにある聖書に記されている遺跡の数は、聖地以外のどこよりも多い。
世界で最も古い文明の一つであるシュメールの古代都市ウルは、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教のアブラハム三大宗教の伝統の中で、共通の信仰の父であるアブラハムの生誕の地である。今日では、ユーフラテス川のほとりにある現代の都市ナシリヤの近くに、最古の偉大な都市遺跡が残されている。
イラクは、人類初の男女であるアダムとイブが無垢を失う場所として、キリスト教創造の物語にまで関係のある場所である。多くのキリスト教学者は、創世記に記されている「エデンの園」は、メソポタミアの二つの大河が湾に注ぐイラク南部にあったと考えている。
その他の聖書の登場人物、聖人、預言者は、メソポタミア全土の遺跡に関連している。イサクの妻リベカは、メソポタミア北部の古代カルラエ(現在のイラクとの国境にあるトルコの都市ハラン)出身であると考えられている。
ユダヤ人預言者エゼキエルの墓は、ユーフラテス川東岸のナジャフとヒラーの間にあるアルキフルの町にあるとされている。しかし、2014年に「イスラム国」によって、イラク北部のモスルにあるアル・ナビ・ダニール(聖書の預言者ダニエル)と預言者ユヌス(ヨナ)の墓が破壊されたことにより、現代イラクにおけるキリスト教徒のコミュニティーとその歴史の両方における脆弱性が強調された。
バチカンが毎年発行している世界のキリスト教徒数を調査する出版物『Annuario Statistico』によると、米国主導による侵攻直前の2003年には、イラクの信者は約150万人に達していた。独裁者サダム・フセインとバース党政権の世俗主義下は、イスラム過激主義に敵対的であったものの、キリスト教徒やその他の少数民族の生活は、比較的安定していた。
実際、サダムの最も近い同盟者の一人で、副首相兼外相となったタリク・アジズはキリスト教徒であった。アジズは、モスルの北東に位置するアッシリアの町テルケッペで、カルデア系キリスト教徒の家系に「ミハイル・ユハンナ」として生まれた息子である。
差別がなかったわけではない。サダム政権下では、キリスト教の学校は国有化され、生徒の4分の1以上がキリスト教徒である場合にのみ、キリスト教の歴史を教えることができるという法律が可決されていた。一方、イスラム教徒の生徒が学校に1人でもいる場合、すべての生徒にイスラム教の聖典『コーラン』を学ぶことが義務付けられた。
キリスト教徒コミュニティーもまた、イラク政治の十字砲火に巻き込まれている。1978年から1980年にかけて、クルド人の反乱軍は、キリスト教がサダム政権と手を組んでいると見て、多くのキリスト教の村を攻撃した。しかし、2003年のイラク侵攻後、事態は大きく悪化した。
サダム政権の打倒、それに伴うバ―ス党とイラク軍の強制的な解散は、何年にもわたって国内に混乱、反乱、宗派的なテロを引き起こし、しばしばキリスト教徒が砲撃にさらされた。
2003年から2008年の間に、イラクのキリスト教人口は半減し、65以上の教会が攻撃を受け、キリスト教徒は国外へ逃亡し、ヨルダンやシリアなどの国やヨーロッパ、北米に避難場所を求めた。
『Annuario Statistico』に記録されているこの時代のキリスト教徒への攻撃の記録は、恐怖と苦しみの連発である。2004年8月1日、バグダッドの4つの教会と、モスルの1つの教会の5つの教会を襲った自動車爆弾攻撃により、18人が死亡、60人が負傷した。
2006年1月29日、キルクークとバグダッドのキリスト教会付近で連続爆破事件が発生し、3人が死亡した。2006年10月9日、シリア正教の神父パウロス・イスカンダルがモスルで誘拐され、2日後に斬首されているのが発見された。
2006年年11月26日、モスルの福音派キリスト教会の牧師モンター・サカが誘拐され殺害された。2007年6月3日 Ragheed Aziz Ganni司祭の車が武装した男らによって止められ、司祭と同乗していた3人が殺害された。殺害された3人は全員が副輔祭であった。
2008年2月29日、モスルのカトリック教会カルデア派のパウロス・ファライ・ラホ大司教が誘拐された。ラホ大司教と一緒にいた3人がその場で殺害され、大司教の遺体は2週間後に発見された。2008年4月5日、バグダッドでシリア正教の神父ユセフ・アデルが射殺された。
キルクーク大司教のルイ・サコ枢機卿によると、2003年以降、イラクでは710人のキリスト教徒が殉教したという。
最悪の事件の一つとして、2010年10月31日の日曜日のミサ中に、アルカイダ傘下のイラク・イスラム国の過激派組織がバグダッドのシリア・カトリックの救世主聖母大聖堂を攻撃し、この攻撃により58人の男女と子供が死亡した。
「この攻撃で起こったことは、壊滅的で悲劇的な出来事以上のものだった」と、自身もキリスト教徒である当時のイラクのウィジェダン・マイケル人権大臣は語った。
「私に言わせれば、この攻撃はイラクのキリスト教徒を強制的に退去させ、イラクからキリスト教徒を一掃する試みである。」
この教会は以前にも襲われたことがあった。2004年8月にバグダッドとモスルで被害を受けた5つの教会のうちの1つで、12人が死亡した。2018年に2010年に起きた大惨事から8周年を迎えたことを迎えたことをうけ、 Assyrian Policy Instituteは 「イラクの先住民族であるキリスト教アッシリア人がどのように見られ、どのように扱われているかについて、まだ著しい変化はない」と述べた。
2010年の大参事から数年経過し、 Assyrian Policy Instituteはこのように加えた。「イラクにおけるアッシリア人は、2014年のISIS(「イスラム国」)の出現と、イラクとクルディスタン地域の両方の議会において、公平な形で彼らの代表が選出されるという希望が打ち破られたことにより、彼ら自身の存在に対する脅威に直面している。 教皇フランシスコは、バグダッドの救世の聖母を訪問する際に、イラクにおけるキリスト教の殉教者全員を思うことになるだろう。
「イスラム国」の出現はイラクのキリスト教徒に新たな恐怖をもたらした。2014年6月、「イスラム国」はモスルを占領し、何千人ものキリスト教徒が命がけで逃亡した。 最初は近くのカラコシュ、そしてイラク・クルディスタンの首都エルビルへと向かった。
6世紀後半にモスル近郊の東方教会によって設立された聖イライジャ修道院では、修道士らがイスラム教への改宗を拒否したため、イランの王の兵士に殺され、その後修道院は1743年に閉鎖された。その建物は、2003年の侵略の間に米軍によって損傷を受けたものの、2014年に「イスラム国」によって瓦礫の山となるまで、キリスト教の巡礼者の目的地であり続けた。
その翌年のニューヨーク・タイムズ紙の報道では、モスルとカラコシュのキリスト教徒が直面している選択が明確に示されていた。「彼らは改宗するか、それともキリスト教徒、ゾロアスター教徒、ユダヤ人など、 「啓典の民」以外のすべての者に課せられる人頭税である「ジズヤ」を支払うかのどちらかである。拒否すれば殺され、レイプされ、奴隷にされ、戦争の戦利品として財産を奪われる。」
当然のことながら、「イスラム国」によるのテロ行為が絶頂期にあった時期のイラクの少数民族の今後に関するEUの調査では、2015年までにイラクに残ったキリスト教徒はわずか50万人にすぎず、主にバグダッド、モスル、ニネベ平原、クルディスタン自治区に住んでいると結論づけられている。
その数は、今日では15万人を下回る可能性もある。今回のローマ教皇のイラク訪問で最も印象的となるのは、「イスラム国」により占領されたイラク最大の教会『無原罪の御宿りの聖母教会』があるカラコシュのキリスト教コミュニティーへの訪問だろう。
伝統的には、イラクとキリスト教の関係は、イエス・キリストの磔刑の後、弟子のトマスがメソポタミアで説教するために東へ旅立った紀元1世紀にまでさかのぼるとされている。
モスルにある聖トマス教会は、トマスが住んでいた家の跡地に建てられたと言われており、1964年には作業員らが彼の指の骨と思われるものを発見した。2014年に「イスラム国」がモスルを陥落した後、これらの遺物は、4世紀に設立されたニネベ平原のバルテラ近くにあるシリア正教の聖マシュー修道院に保管のために移送された。
後に使徒聖トマスとして列聖化されたトマスには二人の弟子がいた。マル・アダイとマル・マリとして知られている。(「マル」はシリア語で聖人を指し敬意を表す称号) 二人は、メソポタミアにおけるキリスト教会の基礎を作ったと言われている。
これが東方教会として知られるようになったものである。そして、ペルシャ教会としても知られ、5世紀には神学的な論争の的であり、コンスタンティノープルの大司教であったネストリウスを支持していたことから、ネストリウス教会としても知られている。
メソポタミアにおけるキリスト教の物語は、分裂の連続である。410年のセレウシア評議会では、ササン朝ペルシャのすべてのキリスト教徒が、現在のバグダッド近郊にある首都に集まり、単一教会である「東方教会」を結成し、424年にローマ帝国と決別した。
イスラム教の台頭とササン朝帝国のイスラム共同体による征服の後も、キリスト教徒は、ズィンミー(イスラム政権下における庇護民)、または保護された非イスラムのコミュニティーとして容認され、繁栄した。
8世紀から13世紀にかけて、東方教会は劇的に拡大し、メソポタミアを拠点に福音を広め、地中海沿岸からイラク、イラン、インドを経て、遠くはモンゴル帝国や中国まで、100以上の教区を設立した。
衰退は13世紀にモンゴル人がキリスト教に背を向け、イスラム教を受け入れたことから始まった。14世紀にはトルコ化したモンゴル部族出身で、ティムール帝国の支配者であるティムールが非イスラム教徒の粛清に乗り出した。
それ以来、東方教会はすべての始まりの地であるメソポタミア北部に閉じこめられた。メソポタミア北部では、現代のイラクのあらゆる試練と困難にもかかわらず、その子孫であるキリスト教会とその減少しつつある教区の人々が信仰を貫き続けている。
何世紀にもわたって内部分裂が続いた。その内部分裂が、アッシリア人(またはネストリヤ人、シリア正教会の教徒)やアルメニア人、カルデア人、シリア人の東カトリック教会など、今日のイラクのキリスト教徒が所属する多様な教派の分裂に反映されている。
しかし、教義の違いが何であれ、イラクのすべてのキリスト教徒は、ローマ教皇の歴史的な訪問を、衝撃的逆境に直面した彼らの勇気と粘り強さが無駄ではなかったことの証として捉えるだろう。
「私たちは、「イスラム国」によって作られたこの傷を癒そうとしています」と、テルスクフにある聖ジョージ・カルデア・カトリック教会の2人の神父のうちの1人であるカラム・シャマシャ神父は、2020年11月にカトリック通信社に語った。
「私たちの家族は強く、信仰を守ってきました。しかし、彼らは『あなたは大変よくやってきた。しかし、信仰を続けなければならない』と言ってくれる誰かを必要としているのです。」
その誰かは、フランシスコ教皇となるだろう。
エルビルにあるカルデア派カトリック教会のバシャール・ワルダ大主教は12月、シリアとイラクで迫害されたカトリック教徒のために活動する慈善団体「Aid to the Church in Need」に対し、このように語った。「私たちは存在が危ぶまれるところまで疎外されてきました。今回のローマ教皇のイラクご訪問は、私達にとって大きな救いとなるでしょう。」