
ハゼム・バルーシャ
ガザ市:「あの時代と、かつてのラマダンの1カ月ほど美しいものはない」
この素朴な言葉とともに、パレスチナのウム・アフメド・アケルさんは、1948年のナクバ以前のラマダンの雰囲気を回想し始めた。
1925年生まれのアケルさんは、ナクバによって故郷のサラファンドから家族で移住することを余儀なくされたとき、すでに結婚していた。彼女は、サラファンドからガザへ避難する苦難の道中に幼い娘を失った。5月15日、このパレスチナの悲劇は74周年を迎える。
97歳の彼女の記憶は、年月を経てもなお明るく燃えている。彼女はナクバ以前のパレスチナのラマダンの体験をよく覚えている。
ウム・アフメッド・アケル
「今は時代が変わり、生活が大変だけど、当時はみんな素朴でいい人ばかりだった」と話す。
ラマダンの期間には、街は飾り付けられ、菓子屋が繁盛しました。伝統を守り、美しい雰囲気に包まれるこの月は、特に夜は、1年の中でも最高の美しさでした。
アリ・アル・アセール(ヤッファ出身)
「ラマダン前やラマダン中は、まるで長い間離れていた大切な人を待ち望んでいるかのように、幸せな気持ちで胸がいっぱいになります。私たちにとってラマダンは、善と祝福の月だったのです」
アケルさんは皺だらけの顔に微笑みを浮かべながら、ラマダン前の数日間、女性たちは水を冷やしておくための陶器の壺を用意したり、「スフール」と呼ばれる食事のためのチーズを作ったりするのに忙しかったことを思い出した。
町の裕福な人々は率先して貧しい人々に小麦粉や野菜を配り、ラマダンの初日にザカートを支払った。支援を受けた人たちは、ラマダンの期間に必要なものを購入することができた。
「女性たちは、イフタールの食事を準備するためにグループで集まり、食料品を交換したものです。最近のイフタールと違って、家族で食べきれないほど何品も作るようなことはなく、豆などの季節の野菜が入った料理や、砕いた小麦と赤身肉を一緒に煮込んだ『ジェリシャ』という料理を用意しました」
季節の食事であるジェリシャ料理は、とても高価でほとんどの家庭では作れなかった。そのため、裕福な家庭ではラマダンの期間に大量に調理し、町の人々に配って聖なる月を祝った。
アリ・アル・アセール
ナクバ当時、サラファンドの町は人口わずか2,000人の町だった。「サラファンドには小さなモスクが1つありました。村の子供たちは女の子も男の子も日没になるとその近くに集まり、マグレブの祈りの呼びかけを待ち、神の栄光を讃え、歓声を上げながら家に向かいました」
アリ・アル・アセールさん(87)は、13歳の子どもだった当時ヤッファに住んでいた家族とともにナクバを体験し、苦難を強いられた。
アル・アセールさんもアケルさんと同様に、ヤッファで過ごした幼年期から長い年月が経った今でもラマダンの習慣や伝統をはっきりと覚えている。自分が生まれた家やそこでの日常生活についても、詳しく思い出せるという。
「ラマダンの期間には、街は飾り付けられ、菓子屋が繁盛しました。伝統を守り、美しい雰囲気に包まれるこの月は、特に夜は、1年の中でも最高の美しさでした 」とアセールさんは言った。
日没時には、浜辺はイフタールの大砲を待つ若者や子供たちで混雑した。この祝砲は、パレスチナの他の大都市にはないヤッファ独自の風習だ。地元の人々にとって、この大砲の音はイフタールの時間を知らせる合図になっていた。
イフタールの後、男性たちは夕べの礼拝とタラウィの礼拝を行い、外で集まり、親族会議で聴けるラジオ番組や宗教的な祈りに耳を傾けた。
「生活はシンプルだった。ラマダンの月は人々の調和を高め、家族は1つの『Tabliah』に集まった」。小さな低い木のテーブル『Tabliah』を家族で囲み、1枚の皿から一緒に料理を食べた。
パレスチナの歴史家サリム・アル・ムバイドさんは、ナクバとその影響のためか、発展やテクノロジーや日常生活の事柄ばかりに気を取られるようになったためか、かつて存在していたラマダンの月を迎える喜びと、この期間だけの特別な雰囲気のほとんどが失われてしまったと述べた。
「あの素朴で美しい時代はどこに行ってしまったのでしょう。多くの美しい姿や習慣や伝統と同様に、テクノロジーに飲み込まれてしまったのでしょうか」