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イスラエルによる暗殺事件から50年、レバノンはいまだに代理戦争の戦場である

葬列でベイルートの通りを運ばれる、暗殺された人々のパレスチナ国旗で覆われた棺。1973年4月12日(AP)
葬列でベイルートの通りを運ばれる、暗殺された人々のパレスチナ国旗で覆われた棺。1973年4月12日(AP)
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10 Apr 2023 09:04:56 GMT9
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  • 1973年、イスラエルの「若者の春」作戦ではPLOの高官3名と数名の警察官、警備員が殺害された

ベイルート:今から50年前の寒い晩、女装した男に率いられたイスラエル特殊部隊がベイルートの高級住宅街に侵入し、パレスチナ解放機構(PLO)の高官3人を住居のアパートで射殺した。

50年後の節目にこの事件に注意を向ける人はほとんどいないが、1973年4月10日の作戦は、今日まで続く重要性を持っている。

この急襲作戦では、初めてレバノンがイスラエルとその敵対勢力の闘争の舞台となった。それから50年が経つが、状況は変わっていない。先週起きた、レバノンのパレスチナ武装グループとイスラエル間の国境越しのロケット弾と空爆の応酬は、このことをよく示している。

暗殺者たちの大胆さ(部隊はほとんど抵抗を受けずにベイルートを出入りした)はレバノン国民を驚愕させた。内戦勃発の2年前であった当時、レバノンの主なイメージと言えば観光客がパーティーに参加し、遺跡を見学し、雪山でスキーを楽しみ、砂浜で日光浴をする観光地だったのだ。暗殺事件は今日まで続く新たな時代の始まりを告げた。以来、地域の諸大国が繰り返しレバノンに介入するようになったのだ。

暗殺チームを率いたエフード・バラック氏は後にイスラエル軍の最高司令官となり、1999年には首相の座についた。作戦のターゲットはカマール・アドワン(イスラエルが占領するヨルダン川西岸地区でのPLOの作戦を指揮)、モハメド・ユーセフ・ナジャール(PLO執行委員会メンバー)、カマール・ナーセル(PLO報道官でカリスマ的な作家・詩人)の3氏であった。

1973年4月9日の夜、アドワン氏の妻、マハ・ジャユーシ氏は歯痛に苦しんでいたため、年少の子供の寝室で寝た。アドワン氏は普段から遅くまで仕事をする習慣で、その晩も数人のPLO幹部と会合の予定があったとジャユーシ氏はAP通信に話している。彼女は事件以来居住しているヨルダンから取材に応じた。

午前1時頃、ジャユーシ氏は大きな物音と、ベッドの上の窓が砕ける音で目を覚ました。アドワン氏が彼女が寝ていた寝室に銃を持って駆け込んでくると、部屋から出ないよう言った。数秒後、銃声が響き、アドワン氏は2つの寝室の間の廊下に斃れた。武装した2人の男が寝室に入り、懐中電灯でジャユーシ氏と子供たちを照らした。

その内の1人が、無線機にヘブライ語で「任務完了。妻と子供がここにいるが、殺害すべきか」と話すのが聞こえた。答えは「抵抗しないのであれば、殺すな」というものだったとジャユーシ氏は回想している。彼女はカイロ大学でヘブライ語を学んでいた。

イスラエル人たちが出ていくと、彼女は急いで子供たちをバスルームに隠し、家の中を見て回った。玄関ドアは壊されて大きく開いたままで、銃弾による穴だらけだった。階段には血痕があった。当初ジャユーシ氏は、1階上の部屋に住んでいたナーセル氏も殺害されたことを知らなかった。

彼女はバルコニーに出ると、路地の向かい側に住んでいたナジャ―ル氏に大声で叫んだ。彼と彼の妻も殺されているとは知らずに。ジャユーシ氏は、事件の数週間前に、見知らぬ人々が建物の駐車場に来て、通りの向こうからアパートの写真を撮っていたことに気づいた。アドワン氏は不安にかられ、警備を強化してもらうつもりだと話していたという。

「若者の春」作戦として知られるこの事件では、3人のPLO幹部とともにレバノンの警察官数名、出動した警備員数名が殺害された。またベイルートでは、別のイスラエル特殊部隊の隊員2名が、別のターゲットを襲撃した際の銃撃戦で死亡した。

作戦は、1972年のミュンヘンオリンピック事件への報復として行われた、イスラエルによる一連のパレスチナ要人暗殺の一環であった。ミュンヘンオリンピック事件では、パレスチナ人のグループ「黒い九月」が人質を取り、イスラエル代表のコーチと選手11名が犠牲になった。アドワン氏の息子ラミ・アドワン氏は、後に父親はミュンヘンの事件とは何の関係もなかったと述べた。

数年後、バラック氏は作戦を振り返り、自身と他2名の特殊部隊員はかつらと化粧で女装していたと説明した。夜にベイルートの通りを男だけの集団が歩くよりは注意を引きにくいと考えたためだという。

部隊はベイルートの海岸にボートで上陸し、モサドの諜報員と落ち合った。諜報員は観光客のふりをし、彼らをヴェルダンの近くまで車で送った。

そこで、3つの隊が2つの建物に侵入し、玄関ドアを爆破して開けた。バラック氏は予備隊とともに建物の外で待機した。彼らは近づいてきた警備員を射殺し、銃撃を聞いて出動したレバノン警察の車両に発砲したと、後年バラック氏はテレビのインタビューで話している。

バラック氏によると、8分後に3つの隊が戻ってきた。車で海岸まで戻り、ボートで海に出た。チームが持ち帰った書類が、ヨルダン川西岸地区のPLO工作員の逮捕につながったという。

暗殺の数日後、10万以上の人々が殺害された3人の幹部の葬儀に参列した。3人はパレスチナ政府関係者や戦士の多くが長年埋葬されてきた「殉教者墓地」に葬られた。

暗殺により、PLOその他のパレスチナ人組織への支持をめぐって二分されていたレバノン国民の分断はさらに深刻化した。これらの組織は、1970年にレバノンを拠点に定め、ヨルダンから追放された人々もこれに合流し、イスラエルがヨルダン川西岸地区、ガザ地区、東エルサレムを占拠した3年後も同じことが起きた。彼らはレバノンからイスラエル国内へ攻撃を仕掛けるようになった。

暗殺が引き起こした政治的危機により、当時のレバノンのサイーブ・サラーム首相率いる内閣は辞職に追い込まれた。それから1か月も経たない内に、レバノン軍とパレスチナゲリラの間で衝突が起きた。パレスチナをめぐる分断は、1975年から1990年まで続いたレバノン内戦の原因の1つである。内戦中、イスラエルはレバノンに侵攻し、2000年に撤退するまで国土の一部を占領した。

内戦終了後は、イランが支援するイスラム教シーア派武装派組織ヒズボラがレバノンにおけるイスラエルの敵として登場した。2006年のイスラエルとヒズボラの戦争はレバノンの特に南部に大きな被害をもたらした。

そして、パレスチナの各組織もレバノンで存在感を保っている。先週、イスラエルはパレスチナの武装組織ハマスをイスラエル領内にロケット弾を一斉発射したとして非難したが、これはイスラム教・ユダヤ教の両者において神聖とされる丘の上に立つアル・アクサモスクをイスラエル警察が襲撃したことへの報復と見られる。

4月7日、イスラエルがこれを受けてレバノンを空爆すると、過去にパレスチナ人戦闘員の不倶戴天の敵であったレバノンの政治家の一部はハマスを非難した。

党首を務めるレバノン軍団が内戦中しばしばパレスチナ人戦闘員と戦ったサミール・ジャアジャア氏は、政府に国境地域の安全を保障するよう求めた。また、ジャアジャア氏はヒズボラとハマスを念頭に「イランが率いる同盟に戦略的決定を」委ねないよう求めた。レバノン軍団の元司令官、フアド・アブ・ナデル氏もハマスの指導者を逮捕するよう求めた。

過去50年間に起きた戦争や内戦により、1973年の暗殺事件の記憶は相対的に薄れてはいるものの、事件はいまだに歴史上の衝撃的な瞬間として屹立している。

レバノンの作家、ジアド・カジ氏は事件当時9歳で、ヴェルダン近郊に住んでいた。氏は銃撃の音が響き、停電が起きた時の衝撃を覚えている。同じ建物の住人たちの多くは、1階のカジ氏の家族が暮らす部屋に避難した。

「眠れない、恐ろしい夜でした。今でも心に残り、消えません」とカジ氏は話した。

AP

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