リビア、デルナ:レスキュー隊は、洪水がダムを決壊させ近隣を押し流したリビアの都市の残骸から、13日の時点で2000人以上の遺体を発見した。
政府関係者は、長年の混乱と放置により脆弱(ぜいじゃく)になったこの国で、死者が5000人を超えるのではないかと懸念している。
洪水は海岸沿いの都市デルナに大きなインフラ被害をもたらし、少なくとも3万人が避難したと、国連の国際移住機関(IOM)は発表した。被害があまりにも甚大なため、人道支援関係者はほとんど立ち入ることができない状態になっている、と同機関は述べている。
地中海で発生した「ストーム・ダニエル」は東部の多くの町で致命的な洪水を引き起こしたが、最も被害が大きかったのはデルナだった。嵐が17日の夜に海岸を襲ったとき、デルナの住民は、市外のダムが崩壊したとき、大きな爆発音を聞いたと語った。洪水はワディ・デルナ川を流れ下った。ワディ・デルナ川は山から街を流れ、海に注いでいる。
リビア東部のオスマン・アブドゥルジャリール保健相は、13日の朝の時点で2000体以上の死体が収容され、その半数以上がデルナの集団墓地に埋葬されたと述べた。レスキュー隊は昼夜を問わず、市内の路上やがれきの下に散乱した多くの遺体を収容するために活動している。海から収容された遺体もあった。
この驚くべき惨状は、嵐の激しさと同時にリビアの脆弱性を示している。同国は東部と西部の対立した政府によって分断されており、その結果、多くの地域でインフラが放置されている。
今回の洪水では、デルナへアクセス可能な道路の多くが損壊または破壊された。市内に通じる7本の道路のうち、南端からアクセスできるのは2本だけである。IOMによると、市の東部と西部を結ぶデルナ川にかかる橋も崩壊した。これらの破壊は、家が損壊、または被害を受けた何万人もの人々への国際救助隊や人道支援の到着を妨げている。
「デルナの街は高さ7メートルの波によって水没し、行く手すべてを破壊した」と、赤十字国際委員会(ICRC)のリビア代表団長であるヤン・フリデス氏はフランス24の取材に対し語った。「人的な被害は甚大だ」
軍隊、政府職員、ボランティア、住民を含む現地の緊急対応要員は、がれきを掘り起こし、遺体を探し続けている。また、ゴムボートやヘリコプターを使って、水中や近づくのが困難な場所から遺体を収容した。
「これはあらゆる意味での災害だ」と、11人の家族を失った生存者は、救助隊が彼をなだめようとするなか、泣き叫びながら地元テレビ局に語った。テレビ局はその生存者の身元を特定していない。
捜索・救助活動に参加した生存者の一人、アーメド・アブダラ氏は、市内で唯一被害をまぬがれた墓地にある集団墓地に埋葬する前に、地元の病院の庭に遺体を安置していると語った。
「何も考えられない状況だ。この災害で家族全員が死んだ。何人かは海に流された」とアブダラ氏はデルナから電話で語った。
この2日間、ブルドーザーが人道支援物資や捜索・救助活動のためすぐに必要な重機の搬入を可能にするため、道路を修復・整地する作業にあたっていた。同市は、12日に国際援助が到着し始めたベンガジの東250キロに位置する。
リビアの隣国であるエジプト、アルジェリア、チュニジア、トルコ、アラブ首長国連邦が救助隊と人道支援物資を送った。米国のジョー・バイデン大統領も、同国は救援団体に緊急資金を送り、リビア当局や国連と調整し、さらなる支援を提供すると述べた。
リビア国営メディアによると、リビア東部内務省のモハメド・アブ・ラモウシャ報道官は12日、デルナにおける死者数を5300人以上と発表した。リビア東部の他の町でも数十人が死亡したと同氏は伝えた。
当局は数百の遺体を近隣の町の死体安置所に移した。APが入手した死者リストによると、デルナから169キロ東にあるトブルク市では、トブルク医療センターの死体安置所に、デルナの洪水で死亡した300人以上の遺体が収容されている。
洪水で死亡したエジプト人の遺体数十体は母国へ移送された。22人のエジプト人の葬儀が13日、南部ベニスエフ県のエルシャリフ村で執り行われた。他の4人は、ナイルデルタのブハイラ県の故郷に埋葬されたとエジプトの地元メディアが報じた。
国際赤十字・赤新月社連盟のリビア特使タマー・ラマダン氏によると、少なくとも1万人がまだ行方不明だという。ラマダン氏によると、リビア東部のデルナや洪水の影響を受けた他の町では、4万人が避難しているという。
白く塗られた家々とヤシの園で知られるデルナは、首都トリポリから東に約900キロに位置し、東リビア政府と同盟関係にある強力な軍事司令官ハリファ・ハフタル氏の勢力が支配している。トリポリを拠点とする西リビアのライバル政府は、他の武装グループと同盟を結んでいる。
デルナの建物の多くは、20世紀前半のイタリアのリビア占領期にイタリアによって建設された。この都市は、2011年に長年の独裁者ムアンマル・カダフィ(カダフィ大佐)を殺害したNATOの支援による蜂起後の混乱期には、過激派グループの拠点となっていた。
AP