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歴史が語る、イスラエルがガザを制圧できない理由

ガザ地区南部のラファでイスラエル軍による爆撃中に立ち上る煙。2023年11月14日(ファイル/AFP)
ガザ地区南部のラファでイスラエル軍による爆撃中に立ち上る煙。2023年11月14日(ファイル/AFP)
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16 Nov 2023 01:11:01 GMT9
16 Nov 2023 01:11:01 GMT9

ガザ地区におけるイスラエルの軍事目標について今も続く議論の焦点は、主にイスラエルがガザ地区の長期または短期の軍事再占領を計画しているのかどうかである。イスラエル国民自身がこの議論に熱くなっており、国民の41%が紛争収束後、ガザからの撤退を希望しており、44%がガザをイスラエルの支配下におくことを望んでいる。

この結果は、ラザール研究所が実施し、10日にマーリヴ(Maariv)が発表した世論調査で明らかになった。この数字には、イスラエル人自身の心の中でさえ、ガザの法的地位について、実際には混乱していることが反映されている。実際のところ、イスラエルは2005年9月にこの狭く貧しい地域からの「再配置」構想を立てたにもかかわらず、いまだにパレスチナの残りの地域を含め、ガザ地区の占領国である。

イスラエル人は当時、自国はもはやガザ地区の占領国ではなく、国際法、特にジュネーブ条約第4条に従い、同地区に対する責任はもうないと思い込んでいた。

しかし、その認識は誤りである。たとえイスラエル政府が「再配置」の最後の日である2005年9月21日、ガザは「国外領土」になったと宣言した、としてもだ。ほぼちょうど2年後、国外領土とされていた場所は「敵対的領土」という宣言がなされた。よって、この「敵対的領土」がイスラエルの主権を尊重しない、あるいはイスラエル領土に脅威を与える場合、イスラエル軍を激怒させる存在になったのだ。

しかし、国際法はイスラエルによるガザの定義に配慮することはない。国連は繰り返し、ガザ地区は占領状態が続いていると主張する声明を発表している。さらに、ガザとイスラエルを隔てるフェンスや壁は、1948年のパレスチナの民族浄化の後、イスラエルとエジプト、その他のアラブ諸国との間で結ばれた1949年の休戦協定によって指定された、国際的に認められた国境地帯ではない。

したがって、紛争収束後にガザを占領するか否かについて、イスラエルでは激しい議論がなされているが、この議論に意味はない。なぜなら、ガザは一度も再占領状態から解放されたことがないからだ。

紛争収束後にガザを占領するか否かについて、イスラエルでは激しい議論がなされているが、この議論に意味はない。なぜなら、ガザは一度も再占領状態から解放されたことがないからだ

ラムジー・バロウド

イスラエルがこの明白な論理を受け入れるかどうかは、あまり重要ではない。なぜなら、このような結論を下し、この結論に沿って強制する権限と責任を持つのは、国連や国際司法裁判所など国際的な法的機関だからだ。

しかしやはり、イスラエルは忘れてはならない、差し迫った問題がいくつか残る。

ひとつは、これまでようにガザの包囲を再開しても、イスラエルの問題は解決しない。つまり、ガザが抵抗せねばならない主たる根拠となっているのは、イスラエル政府のドヴ・ワイスグラス上級顧問による、パレスチナ人は「栄養失調にならない程度に最低限食べる」ことはできるが死ぬことは許されないという2006年の主張に沿った、外部から隔絶された包囲がなされていることだ。

第二に、そもそもイスラエルがガザの人口密集地からの再配置を強いられ、17年近くも続いている苛烈な包囲になったのも、この抵抗があったからこそである。

これまでに紹介した出来事やその日付は、戦争にまつわるイスラエル側の物語には不都合なため、主流メディアは見て見ぬふりをすることが多い。たとえば西側のメディアでは、2005年9月(ただし、この記事ではイスラエルの「再配置(redeployment)」は「撤退(withdrawal)」と同じと解釈されている)と、ハマスがイスラエル南部を攻撃した今年10月7日を、注目に値する最も重要な出来事とその日付として強調するのは普通のことだ。2005年9月はイスラエルを免責するために、2023年10月7日はパレスチナ人を巻き込むために使われて強調されるのだ。

しかし、パレスチナ人、そしてこの紛争の真実に興味がある人はみな、このような論理に縛られていると感じるべきではない。

さらに、ガザ地区の大半のパレスチナ人は、1948年に自分の家や村から追放されたパレスチナ難民の子孫であることを忘れてはならない。国連総会決議194号で認められている通り、パレスチナ難民の子孫は当然のことながら、自らを自分たちの土地に帰還する権利がある難民であるとみなし続けているのである。

1967年6月(第三次中東戦争)も、覚えておくべきもう一つの日付である。この時、イスラエルはパレスチナの歴史的に重要な東エルサレム、ヨルダン川西岸地区、ガザ地区の残りの土地をすべて占領した。これは極めて重要な出来事の日付で、イスラエルとパレスチナ人との関係において、驚天動地の歴史的転換点であり、その後パレスチナ人はイスラエル人入植者の植民地主義とイスラエルによる軍事占領の両方の犠牲者となったのである。

イスラエルにはガザにおいて軍事的選択肢はなく、イスラエル政府が考える軍事戦略を支持する人々は、誤った思い込みをしている

ラムジー・バロウド

イスラエルによる軍事占領が、パレスチナに新たな形の民衆抵抗運動を引き起こし、一般の抑圧されたパレスチナ住民が毎日、イスラエル兵と衝突することになった。1967年から2005年までの抵抗の手段は、主に市民の不服従、民衆のストライキ、大規模な抗議デモ、投石に頼っていた。しかし、それでもイスラエル軍をガザ地区から追い出すには十分で、新たな段階である軍事占領と引き換えだったが、ガザ地区での日常的な取り締まりは終了した。

イスラエルによる再配置の最終日、真夜中過ぎから数万人のパレスチナ人がガザ中心部の街頭に繰り出し、最後の軍事基地から撤退するイスラエル兵と衝突した。ガザの若者たちは事前に打ち合わせをしたわけでもないのに、イスラエル軍に対し、再配置の残り数時間であっても、ガザ地区内では歓迎されていなかったというメッセージを送りたかったのだ。

イスラエル人はこの過去の歴史を熟慮すべきである。また、イスラエル軍の悪名高い司令官から首相に転身したアリエル・シャロン氏の指導の下、イスラエルがガザから急いで撤退したのは、パレスチナ人が軍隊も武器もほとんど持たなかった時代だったことも思い起こすべきである。パレスチナ人によるこの武装抵抗は、ほとんどが組織力が低い民兵によって行われており、占領下で抑圧されてうんざりしている数十万ものパレスチナ人の怒りに支えられていた。

もしイスラエルがガザに戻って留まるならば、反感に満ちたガザ地区を統治するという困難な課題はさらに難しくなるだろう。ガザの人口は2005年以降、急激に増加している。しかも、ガザの戦闘集団はたとえ非力であっても、イスラエル軍を締め出すためには戦って死ぬ覚悟ができている、数千人の男たちを指揮している。

さらに重要なのは、イスラエルが40年近く試みたにもかかわらず、分断前のこれまでひとつだったガザですら、統治に成功したことがない。もしイスラエルが愚かにも、ガザ地区への帰還を決めるならば、二派のガザ住民、つまり反抗的で力をつけた地上のガザ住民と、数万人もの地下のガザ戦闘員と戦わなければならないだろう。

イスラエルにはガザにおいて軍事的選択肢はなく、イスラエル政府が考える軍事戦略を支持する人々は、誤った思い込みをしているというのは、真実である。

ガザの唯一の解決策は、他の占領地域のそれと同じである。問題の核心は「パレスチナ人によるテロ」や戦闘状態ではなく、イスラエルによる軍事占領、人種差別、容赦ない包囲であることをはっきりと理解することである。

もしイスラエルがパレスチナにおいて違法行為をやめることなく、パレスチナ住民の自由、平等、正義につながらないのであれば、パレスチナのあらゆる形での抵抗が衰えることはなく続くだろう。

  • ラムジー・バロウド氏は20年以上にわたり、中東に関する執筆を続けている。国際的なシンジケート・コラムニスト、メディア コンサルタントで複数冊の著作があり、PalestinChronicle.comの創設者でもある。X @RamzyBaroud
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