ガザで戦争と暴力が続く間も、キリストは、性別、宗教、民族、支持する政党、所属する宗派に関係なく、すべての生命の神聖さを私たちに明らかにしてくださいました。
戦争は尊い人命を単なる数字に変えてしまいます。イエスは、飼い葉桶から、つまり生まれたその瞬間から、すべての人間には神の姿が刻み込まれていると私たちに力強く断言されています。それゆえ、すべての人に平等の価値があり、すべての人が平等な尊厳を受けるに値するのです。
「神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネの福音書3章16節)、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためである」(ヨハネの福音書10章10節)という言葉のとおり、神は私たち一人ひとりを平等に愛してくださいます。
すべての人が完全な尊厳と完全な自由をもって生きることが神のご意志です。敵か味方か、政治信念や宗教観が同じか違うのか、同じ言語を話すのか、国境の反対側に住んでいるのかに関係なく、神から与えられた人間性を他者から奪う権利は誰にもありません。
戦争によって改めてわかったのは、地球上で最も低い場所であっても、最も困難な場所であっても、瓦礫の中でさえ、生命の神聖さが存在しなければならない、ということです。
ガザ戦争はパンドラの箱を開けてしまいました。中にはこの戦争を宗教対立と誤解する人がいます。しかし、この戦争は宗教戦争ではないということを強調したい。敬虔な人々は昔から、聖地パレスチナで協調して共存する方法を知っているのです。
聖地パレスチナでは正義による平和実現がまだ可能であることを、世界の指導者たちにわかってほしい。
ムニブ・ユナン博士・名誉主教
聖書から、この戦争を終末論的、黙示録の世界さながらであるとまでいう人もいます。このような見方をする人たちは、たとえ自らをキリスト教徒であると自称していても、ベツレヘムの飼い葉桶からの光を見ることができない人々です。
イエスの誕生は、神が愛であり、この神は悪のために人命や人間の苦しみを利用することは決してないことを何度も繰り返し明らかにしてきました。イエス自身こそ預言の成就であり、想像上の終末論的悪夢ではありません。
いまだに、ガザでの戦争を「正義の戦争」という人もいます。率直に言って、正義の戦争が存在するとは、私は信じていません。聖地パレスチナに住む私たちが必要としているのは、正義の戦争ではなく、公正な平和です。私たちはこれ以上、武器、抑圧、敵対行為、攻撃、声明、人権の否定を求めていません。求めているのは正義です。正義だけが私たちの願いであり、私たちが必要としているものです。私たちがキリストを通して知る生命の光が、すべての人々に届きますように。
これらの言葉は世界中のキリスト教徒と教会の正当性を試しています。私たちの世界、特にこの場所、この時期に、どのようにすれば愛と正義の光を届けることができるのでしょうか?
そこで私たちは聖地パレスチナから、世界中のキリスト教徒に対し、積極的に戦争の即時停止を働きかけるよう呼びかけます。12月15日、教皇フランシスコはこう語りかけました。「子どもたちの殺害が、戦争を止めることができる人々の心に響きますように」
もっと多くの人道援助を要請します。そして聖地パレスチナでは正義による平和実現がまだ可能であることを、世界の指導者たちには認識していただきたい。それどころか、仮に今すぐ停戦になれば、真摯な和平交渉がついに始まるという「カイロスの瞬間」が訪れるかもしれません。長年にわたり続いてきたイスラエル・パレスチナ紛争の終結を実現させる時がきたのです。
犠牲者、遺族、負傷者、心に傷を負った人々、戦争捕虜、避難民、家を破壊された人々、パレスチナのキリスト教徒コミュニティ、そして特に子どもたちに、エルサレムから、私たちが灯したロウソクの火の光が届きますように。
* ムニブ・ユナン博士は、パレスチナとヨルダンの名誉主教で、ルーテル世界連盟の元議長。