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1970年代―サウジアラビア経済の激動の10年

1974年にダンマームで研究に向かうアラムコの将来のエンジニア。石油は、1970年代当時の王国の変革の中心にあった。(Getty Images)
1974年にダンマームで研究に向かうアラムコの将来のエンジニア。石油は、1970年代当時の王国の変革の中心にあった。(Getty Images)
21 Sep 2019 02:09:42 GMT9

サウジアラビアの近代的な経済構造の基礎が築かれた1970年代は、サウジアラビア経済にとって激動の10年間だった。

石油相と石油輸出国機構(OPEC)のサウジアラビア代表として世界中でその名を知られるようになったアハマド・ザキ・ヤマニは、サウジアラビア国民が「自分たちの産出物を支配できるようになった」と述べた。

同国の経済を専門とする歴史学者で、『Saudi Inc,』の著者であるエレン・ウォルドは、アラブ・ニュースに対し、「サウジアラビア経済にとっての1970年代の重要性はどれだけ誇張してもし過ぎることはありません。都市化が大きく加速し、石油やその他の産業でのサウジアラビア国民の雇用を奨励する『サウダイゼーション』に向けて大きな一歩を踏み出したのです」と説明した。

そして、「OPECによる原油価格の統制がもたらした富は、サウジアラビアの世界での購買力と自らの未来を形作る力に大きな変化をもたらしました」と付け加えた。

ドバイ在住の実業家で、サウジアラビアで外交官として働いた経験がある、アンソニー・ハリスは、OPECの連帯と世界的な危機が組み合わさって、世界的な原油価格が10倍に上昇した1970年代当時の経済を思い返している。

「突然、一部のサウジアラビア人が地球上で最も裕福な人々の中にいるようになりました」とハリスは説明する。「大きなファミリービジネスの多くが設立された時代で、そうした企業はいまだに存続しています。そのお金が下に流れ始め、普通のサウジアラビア人の暮らし向きは一層よくなり始めたんです」

こうしてサウジアラビアの消費経済が誕生し、前例のない規模で自動車や電気製品が国内に流れ込んできた。「外の世界がサウジアラビアにやってきたんです」とハリスが言う。

そうした変革の中心にあったのは石油だ。一連の株式購入で石油会社の経営権を元のアメリカの所有者から買い戻され、現代においても王国の最も重要な財産である、アラムコが1970年代に誕生した。

サウジアラビアは、同じ10年間にリビアやイラクなどの他のアラブ諸国がが外国の石油資産を完全接収したのとは対照的に、このプロセスを「参加」と呼んだ。

サウジアラビア政府は、「友好的」と評された一連の株式取引でかなりの現金を支払った。

同政府が払った価格は明らかにされていないが、当時の情報に基づく推測では、金額は15~20億ドルだったとされている。アラムコが今後の新規株式公開で実現したいと考えている価値の範囲の約1000分の1だ。

 1970年代には、王国における国家的かつ組織的な経済産業戦略に向けた最初の動きも現れた。サウジ基礎産業公社(SABIC)の70年半ばの設立、ジュベイル・ヤンブー王立委員会の創設だ。

初めて、原油価格の高騰によって生み出された莫大な富が、集権的に計画され、采配が振るわれたのだ。

1976年の勅令によるSABIC設立を、石油依存から脱却し多角化を図ろうとする王国の最初の試みと言える。

目的は、原油生産の副産物を、化学薬品、ポリマー、肥料や現代経済に不可欠なあらゆる産業資材へと転換し、商業的に採算性のある製品を生み出すことだった。

当時、石油市場に必要な探査、生産、精製、輸送用インフラ以外に、王国には大規模な工業はないも同然だった。

SABICは、設立当初から、テクノクラート、実業家、外交官、小説家であり、かつて「革新のゴッドファーザー」と呼ばれた、ガジ・アブドゥル・ラーマン・アル・ゴサイビ会長の下で、サウジアラビア企業として、王国の産業インフラの基礎を築いた。

現在、SABICは世界第3位の規模の化学企業であり、世界50カ国に34,000人以上の従業員を擁している。そのサウジ証券取引所での株式上場での取引を通じて、中東で最も価値のある上場企業だと評価されている。

同社は、アラムコとの700億ドルの合併を通じて、石油事業のルーツを再確認する過程にある。この合併は、アラムコの世界市場への上場計画と、石油依存をさらに減らすための「ビジョン2030」戦略の両方に決定的な役割を果たすとみなされている。

1970年代のもう一つの重要な経済政策は、1975年に設立され、国が主導で産業経済を計画する最初の政府機関であったジュベイル・ヤンブー王立委員会だ。

1970年代、東部州とヒジャーズ地方は、人が住むのに適さない砂漠によって分断されており、両地域をつなぐのはベドウィンの通り道くらいしかなかった。

経済・産業計画および投資を担う機関として、現在も活動を続けている委員会は、王国のこの2つの地域をつないだ。まずは、サウジアラビア経済にとって戦略的に重要な石油パイプラインで、次に近代的な道路システムで。

その過程で、委員会は、以前は眠っているような漁港であった、アラビア湾のジュベイルと紅海のヤンブーを2つの大きな産業海洋ハブへと作り替えた。

 いずれも現在、王国の近代経済の大切な要となっており、最近発表された「国家産業開発・物流プログラム」の鍵となっている。この計画は、数千億ドルの投資を王国に呼び込むことを目指しており、「ビジョン2030」のもう一つの重要な一翼を担っている。

半世紀近く前に設立された際の委員会の初期の優先事項は、油田での「フレアリング(原油生産中に生産されたガスを燃やすこと、当時は商業的に利益が出ないものと考えられていた)」の実践を止めることだった。

現在、サウジアラビアは成長を続ける大規模のガス産業を有している。国内の発電に使用される石油の量を減らすために使われており、最終的には大規模な輸出を行う計画だ。

委員会のプロジェクトは、サウジアラビアの経済産業政策のもう一つの特徴を示している。それは、王国の計画への 国際的な投資と参加を誘致する必要性だ。

アラムコの初期の発展に大きな役割を果たしたアメリカの請負業者ベクテル社は、1970年代のプロジェクトへの主要な参加企業だった。

「ヤンブーとジュベイルは、すでに強固だった石油産業を中心に築かれたので、特に成功を収めました」と、ウォルドは言う。

「主にアラムコとの合弁事業を通じて、事前に国際的な企業の参加を確保し、米国とサウジアラビアからの強力で効率的な経営を行っていました」

1970年代の経済産業政策の反響は「ビジョン2030」戦略に色濃く感じられるが、ウォルドは、そのまま比べてしまうことに対して警告を発している。主な理由は現在の計画の規模と性質の変容だ。

「この10年間の政府が後押ししたプロジェクトの中には、特にジュベイルとヤンブーですが、大成功を収めたものがありました。しかし、当時と今の間にあるのは単純で自然な進歩ではありません」と、彼女は言う。

「当時、サウジアラビアが改善しようとしていたのは、すでに確立され、実績のある産業でした。『ビジョン2030』では全く新しい分野を開発しようとしているのです」

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