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レバノンと近東のユダヤ人についての考えと回顧録

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15 Sep 2020 01:09:09 GMT9
15 Sep 2020 01:09:09 GMT9
  • アラブ系ユダヤ人は、シオニズム運動の中心ではけっしてなかった。

1994年11月、私は、アラブ世界におけるユダヤ人の歴史についての8回の連載記事を、アラブニュースの姉妹紙であるAsharq Al-Awsatに発表した。この連載は多数の人々から評価されたが、批判する人たちもいた。そのなかには、なぜ私は「私たちの敵」について記事を書いたのか、そして「彼らについて知ること」に何の意味があるのか、について疑問を呈した老練なアラブ人ジャーナリストもいた。

私とは違い、イスラエル建国以前から多数のユダヤ人を知っていたに違いない人物が、このような態度をとったことを、私は少し奇妙に感じた。1948年以降に生まれ、1960年代、70年代に政治に目覚めた人々が、イスラエルに対し怒りと敵意を感じるのは理解できる。民族としてのユダヤ人に対してはそうでもないが。しかし、1948年以前にすでに大人だった人々の多くは、異なった感情ではないとしても、異なった物語をもっているだろうと私は考えていた。

私はレバノンで生まれ1977年まで住んでいたが、私たちの村と山岳レバノン県のShouf地方の歴史について、父と母方の祖父と話したことを覚えている。彼らの思い出から、20世紀初頭には私の村にユダヤ人の銀細工師が2人住んでいたことを知った。父と祖父は彼らの苗字を覚えていなかったが、村では「ユダヤ人の」Amin とSaleemとして知られていた。彼らは、長年にわたって隣人たちと平和に暮らしていた。 Dawood Bakhkhour (Bikhor) の話は、特別である。

私は彼を個人的に知っており、彼が隣村に1970年代まで住んでいたことを覚えている。彼より先に亡くなった彼の妻のことも覚えているが、美容院がまだなかった時代、彼女は私たちの地方で花嫁たちに化粧する第一人者だった。 妻が亡くなった後、Dawoodはその村で、いやそれどころか、その地方全体で、唯一のユダヤ人となった。「sherwal」というズボンとフェルト帽を身につけた彼の外見も彼のなまりも、同世代のほかの村人と違いはなかった。私が覚えている限り、彼の妻は出自が異なっていた。彼女は赤い頬をした金髪の女性で、はっきりとしたダマスカスなまりがあった。

彼女が亡くなってから何年も後に、母が、Bakhkhour夫人が私の祖母(母の母)を訪ねてきた日のことを話してくれた。Bakhkhour夫人は、ダマスカスにおけるユダヤ教の最高指導者の妻が、シドンの最高指導者の妻を訪ねる途上で私たちの村を通ることを祖母に伝えた。そして彼女は、指導者の妻を歓待していただけないかと祖母に懇願し、「私がしばしばお宅を訪ねている立派な家族に彼女を紹介できれば、光栄に思います」と言った。訪問は実現し、Bakhkhour夫人はたいへん喜んだ。 後に、私はベイルートのユダヤ人についてもっと知ることになった。大学には、Attiyeh家とMezrib家の学生がいたことを覚えている。

ベイルートの商業地区、特に、一般に「Wara Al-Baladiyyeh」(市庁の裏)とよばれる壮大なベイルート市庁舎のすぐ裏の通りにあるSouq Al-BazakanとBab Idrissでは、多くの有力な商人たちがユダヤ人だった。Safdie、Qatri、Isaac and Menahem Saad、Isaac Panjel、Hakim-Dwek、Politi, Picciotto、その他多数の有力者の名前が挙げられる。 さらに、ベイルート東部の私たちの家のすぐ近くにある国立博物館から町の西部のラスベイルートにバスで向かうと、ユダヤの旧跡を2つ通った。1つ目は、Ras Al-Naba地区にあるダマスカス通り(Tariq Al-Sham)を見下ろすユダヤ人墓地近くのバス停で、もう1つは、ベイルートのユダヤ人地区Wadi Abu Jamilの北の端のジョルジュ・ピコ通りにあった。

東へ向かう帰り道は、Wadi Abu Jamilの南部のフランス通りを通るが、Selim Tarrab Schoolのそばにバス停があったことを覚えている。 これらの日々は、レバノン内戦によって中断され、私はレバノンを離れ、最初はサウジアラビアに、それからイギリスに住んだ。 イギリスで、そして、その後アメリカを頻繁に訪れるなかで、私は、レバノンや他のアラブ諸国出身のユダヤ人に多数会った。ロンドンでは、スーダンの著名なEl-Eini家出身の大学の同僚や、イラクとその歴史、文化、音楽についての貴重な本を書いた、Meir BasriとYeheskel Kojaman(Hasqeel Qojman)という2人の著名なイラク系ユダヤ人を知った。

彼らはみな、自分たちのスーダン人やイラク人であるというアイデンティティを、誇りをもって公言していた。 Rosa El-Einiはスーダンに住んではいなかったが、彼女の家族は裕福な暮らしを送っていたハルツームを去ることを選んだわけではなかったと、彼女は私に話した。しかし、1967年の戦争と、それに続くハルツームでのアラブ連盟首脳会議でイスラエルといかなる対話をもつこともイスラエルを認めることも拒絶された後、彼らは自分たちの安全について心配するようになった。脅かされているように感じ、彼らはイギリスに出国し、サセックスに居を定めた。 BasriとKojamanは、独特な世代に属している。

彼らはバグダードの社会、ビジネス、政治サークルの活発なメンバーだった。彼らは完璧なアラビア語を話し、Basriは古典アラビア語の詩や文学を楽しみ、活動的な反シオニズム共産主義者だったKojamanは、イラクの音楽とそれに対するイラク系ユダヤ人の貢献についての見事な著作を残した。 アメリカで会ったJack Sasson教授も、アラブのルーツに対して同様の愛着をもっていた。彼はチャペル・ヒルのノースカロライナ大学で近東古典文学を教えており、後にヴァンダービルト大学に移った。Sassonは何よりもまず、誇り高いシリア人である。

彼は、出会うアラブ人だれとでも、アラビア語で話すのを楽しむ。彼はアレッポで生まれ、かつてはその地で重要な地位をしめていたユダヤ人コミュニティに波及した騒乱の後、1940年代後半になって、ベイルートに移った。彼はその後、ベイルートからアメリカに移り、今もそこに住んでいるが、シリア人としての、またユダヤ人としてのルーツを、忘れることはない。 彼は、「私は自分が受け継いだシリアの伝統を誇りに思っていますし、シリア人、アレッポ人であることに誇りをもっています。会議に出席しアラブ人の主催者や同業者に紹介されると、彼らは自動的に英語で私に話しかけます。

でも、私はいつも、『すみません、私はシリア人でアラビア語を話します』といって、彼らをすぐに止めます」 結論として、非アラブ系ユダヤ人によるイスラエルの建国は、アラブ系ユダヤ人とその同国人とのあいだに存在した信頼と友好に対し、最初の損害を与えたと言える。アラブ系ユダヤ人は、けっしてシオニズム運動の中心ではなかった。彼らは、すでに近東に住んでいたか、「レコンキスタ」のなかでイスラム教徒とともにイベリア半島から北アフリカに追いやられた。モロッコでは、彼らは保護されて安全に感じた。さらに、彼らはすでに同じセム系民族とともに住んでいたのだから、ヨーロッパに現れた反セム主義という概念は彼らに当てはまらなかった。

しかし、1948年と1967年の敗北が、ナショナリズムの熱情をかきたて、後にゲリラ抵抗運動をひきおこし、この地域全体を、不信、人間性喪失、悪魔化という悪循環に追いやった。この悪循環は、穏健な声をすべて弱め、アラブ・イスラエル間の抗争の両方の側において過激主義を助長した。

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