
カレド・アブ・ザール
アルメニア系レバノン人で米国に移住した生物学者アーデム・パタポーティアン氏が、今週、ノーベル生理学・医学賞をデビッド・ジュリウス氏と共同受賞した。我々の身体が温感や触覚をいかに得ているかを明らかにしたことにより、今回の栄誉は両研究者に与えられた。ポジティブな環境下でレバノン人が発揮し得る大きな可能性を、分子生物学者のパタポーティアン氏は思い起こさせてくれる。レバノンが果ての無い悲惨のどん底にある現在、この受賞は希望の兆しとも永遠に続く破滅の象徴とも解釈し得る。実際、レバノン人は父祖の地の外でなければ真価を発揮出来ないのだろうか?レバノンは何故その国民の幸福と成功のための舞台と成り得ないのだろうか?
ナジーブ・ミカティー氏の率いるレバノンの新政権にはこうした質問に対応する余裕は無い。そんな事よりも、現在のエネルギーや生活必需品の不足への短期的な対処法を模索し、アラブ諸国との関係修復に努めることに忙しいのだ。他方、ほとんどの国は、レバノンを人道的問題案件と看做している。つまり、レバノンに対するいかなる支援も、「バンドエイド」のような対症療法的方策の姿勢で行われている。可能であれば政府ではなく非政府組織への支援を諸外国は行いたがっているのである。これは、再び高まりを見せたフランスのレバノンへの取り組みにおいても明らかだ。さらには、責任や誓約を果たせるだけの行政権無しに、アラブ諸国との関係が変化することも想像しにくい。そして、この状況が近々に改善されることはない。
想定通りではあるが、レバノンの政治的諸勢力の真の焦点は来年の議会選挙だ。政治家たちは準備に余念が無く、自らの占め得る立場に全神経を集中させている。故に現政権は、選挙を経た後継者たちに困難な改革を委ねることになるだろう。選挙結果がどうであれ、選挙後の政権が形成されるまでにどの位の時間を要するのか、そんな問いを既に抱き始めている向きもあるかもしれない。政治的な行き詰まりがさらに13ヶ月間続いてミシェル・アウン大統領の任期が切れると、レバノンから首相も大統領も居なくなってしまうという事態すら発生しかねないのだ。
私は、レバノンには新憲法についての国民投票が必要だという見解を持っている。しかし、これは甘い考えだ。むしろ、国内の手詰まり状態や危機を、国際的な援助や支援無しには解決不能と理解した上で、いかに解決するのかが、今回の選挙での争点なのである。そのため、主要な候補者たちすべてにとって、地域の変化に適応するためのレバノンの地政学的な再位置付けが中心的なテーマとなる。エネルギー危機も、国際的な承認が必要なエジプトによるシリア経由でのレバノンへのガスの輸出の決定も、地域の変化の微かな兆しであると同時に、シリアが国際的な信用を取り戻しつつあることの表れでもあるのだ。
地域の地政学が今回の選挙に与えている影響の中で主なものは、今後の核交渉、そして、米政権のイランへの新たな(よりヨーロッパと同期した)取り組みであるように見受けられる。期待されているイランとの交渉再開を考慮すると、ヒズボラを弱体化するような行動が取られる見込みはほとんど無い。米国のNGO経由でのレバノンの議会選挙への干渉に対するヒズボラの指導者たちの非難は、純粋に一般大衆に向けたポーズに過ぎない。特に米国のアフガニスタン撤退以降、ヒズボラの指導者たちは時流に乗っている自信を深めている。米政権はレバノンの現在のパワーバランスを支えることも変更しようとすることもないはずだ。レバノンはあるがままであり続け、自ら状況に対処して行くしかないのである。
この状況は、レバノンの政治勢力が2008年5月7日以降ヒズボラの意志に屈してしまったことをはっきりと思い知らせてくれる。ヒズボラとその支持者たちがベイルートの街路に侵攻し彼らこそが実際の権力を有していることを明確にしたその日以降、レバノンの政治家たちはヒズボラをイラン案件内の地域的あるいは国際的問題として対処する選択を本当にしてしまったのだ。レバノンの政治家たちはヒズボラをレバノンの問題であると捉えることを止めたのである。公正を期して言えば、このベイルートの街路への侵攻は、平和的な反対運動を継続することが不可能なほど多くの要人殺害と脅迫の後に行われた。
近年になると、この状況は、政治家たちに「ヒズボラは我々の問題ではない」といった発言を公然とさせるまでに至っている。事実として、これは誤りだ。ヒズボラは地域の問題である以前にレバノンの問題である。完全に孤立させられてしまっているのは誰だろうか?電力を使用できなくなってしまっているのは誰だろうか?医薬品不足に苦しんでいるのは誰だろうか?清潔な水を手に入れられないのは誰だろうか?安全を脅かされているのは誰だろうか?レバノンである。それ故に、ヒズボラはレバノンの問題であり、他の誰の問題でもない。この地域の他の諸国は、自らの子供たちのより良い未来を築くのに手一杯なのだ。
事実として、2008年以前でも、レバノンで反ヒズボラの立場を取る政治家たちは、このイランの傀儡組織が排除されるような地域情勢の好転を常に期待していた。そうした政治家たちは、国際社会が圧倒的な軍事力で救援に駆けつけてくれるとか、イランとの取引によってヒズボラの武装解除が可能になるといったことを信じていたのである。楽観的な考えだった。そのように政治家たちが国際情勢の変化を待ち望んでいる間に、ヒズボラは自らの足場を固め、レバノンという国のすべてを手中に収め、その支配を揺ぎないものにしていた。つまり、ヒズボラが今回の選挙の結果を懸念しているという反ヒズボラ派の一般的な認識は見当外れなのだ。ヒズボラは、自らの構成員と支持者たち、そして、彼らの利益をいかに守るかについて熟知している。そして、ヒズボラは、また、地域情勢の変化のおかげで、全く責任を問われることなく暴力を行使できることも知っているのだ。
期待されているイランとの交渉再開を考慮すると、ヒズボラを弱体化するような行動が取られる見込みはほとんど無い。
カレド・アブ・ザール
奇妙なことに、英国は、現在、そこまで深刻ではないものの、レバノンと同じ供給連鎖上の問題を抱えている。この事実は、近隣諸国との繋がりを放棄してしまった場合、その代償が孤立であることを示している。英国はこうした問題をやがて一時的なものとして解決し、自国民の意志に従って、世界と再び繋がるはずである。レバノンでは事情が異なると考えられる。レバノンは近隣諸国との繋がりを復活させるかもしれないが、それは以前とは別のレバノンとなるだろう。そして、ヨーロッパの人々がその変化を認識するか、あるいは気にかけるかどうかさえ私には分からない。現在の情勢が逆転しないとしたら、10年後のレバノンはどのようになっているだろうか?あるいは、5年後の有様はどのようなものだろうか?
結局、最重要となるテーマは、ヒズボラがその軍事力を放棄する際にレバノン国民は自国のパワーバランスをいかに変化させるのかということである。レバノン国民は、自国の独立を守るために、現在の地域情勢の変化にいかに対応していくべきなのだろうか?端的に言えば、レバノン国民は、国際的な介入を当てにすることなくヒズボラによる国家の乗っ取りを阻止しなければならない。これは難問だが、レバノン人が機知に富み、それを実現できることは証明済みである。