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パレスチナ国家こそ常に本当の解決策

2018年10月19日、ガザのイスラエル・ガザ国境フェンスでの抗議活動で、パレスチナの旗を掲げる女性。(ロイター)
2018年10月19日、ガザのイスラエル・ガザ国境フェンスでの抗議活動で、パレスチナの旗を掲げる女性。(ロイター)
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04 Nov 2021 01:11:40 GMT9
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先週、サウジアラビアに続き、バーレーン、UAE、クウェートがレバノンと断交したのは、レバノンがヒズボラとイランの支援するレジスタンス勢力の支配下に置かれたためだ。1991年のマドリッド中東和平会議から30年が経過した現在も、本地域は主にアラブ・イスラエル和平の理念を受け入れるか否かをめぐって分断されている。

分断の背景には、パレスチナ人の苦境がある。パレスチナ人はヨルダン川西岸地区を占領され、ガザ地区を包囲され、難民キャンプで無国籍状態に置かれたままだ。もし、どちらの陣営が優勢かで中東の地図を色分けするとしたら、レバノンへのボイコットは、同国をレジスタンス陣営に追いやることになる。パレスチナ国家だけが、2つの陣営間の分断構造を根本的に変え、拒否主義者の存在基盤を揺らがすことができる。

駐英、駐米、駐ロ・パレスチナ大使などを歴任したアフィフ・サフィー氏は、機智とユーモアに富んだ人物として知られている。彼はかつて、「オスロ(オスロ合意を指す)がパレスチナを地図に載せたね」と話しかけた外交官に対し、「友よ、ノルウェーを地図に載せたのはパレスチナだ」と答えた。1991年11月1日に終了したマドリードにおける中東和平会議も、パレスチナ問題の歴史に関連する他の多くの都市や人物と同様、マドリードを地図に載せたと言える。

アルジェといえば、1988年11月のパレスチナ独立宣言の際、ヤセル・アラファト議長が初めて国連安保理決議242号(1967年)を受け入れ、イスラエルの存在を認めて2国家解決を模索することで知られる。その1年後、パリでこれがパレスチナ解放機構の憲章と矛盾するのではないかと質問された彼は、フランス語で「憲章は『caduc』だ」と答えた。これを聞いた皆が慌てて辞書を引いてみると、ラテン語の『caducus』が変化したもので、倒れた、もはや立っていないという意味だと分かったという。

さらに第一次湾岸戦争の余波もあって、アラブとイスラエルの指導者が初めて同じ部屋で顔を合わせたのがマドリードだったのである。パレスチナ人は、イスラエル側が単独での会談を拒否したため、ヨルダンの代表団の一員として参加した。噂によると、この時に華々しい外交デビューを飾ったハナン・アシュラウィ氏の雄弁ぶりを、イスラエル代表団のメンバーが心配そうに見つめ、こうこぼしたと言う。「ヤセル・アラファトをパレスチナ人唯一の代表者とすることを主張するべきだった」。

和平プロセスには、非常に多くの人名や地名が関わっている。

オスロといえばPLO・イスラエル間の密約だが、その後にもワシントン会談、アナポリス会談、モスクワ会談、そして第二次インティファーダ直前の2000年のキャンプデービッド会談が行われた。これに続いて、ファハド国王の計画を基にしたアブドラ国王の計画がベイルート宣言に結実し、後にアラブ平和イニシアチブと呼ばれるようになった。さらに、クリントン案、ジョージ・W・ブッシュの和平ロードマップ、イスラエル平和イニシアチブを経て、東京イニシアティブの秘密交渉がその後ジュネーブ・イニシアティブとなった。そして、完全に行き詰まる前の最後の段階として、ケリー平和イニシアチブによる交渉が挙げられる。

ニュージャージー州バイヨンヌ出身のレオン・チャーニー氏や、エスティローダー化粧品の後継者であるロナルド・ローダー氏などの実業家、コロンビア大学のエドワード・サイード氏などの学者も、この流れに便乗していた。二国間トラック、多国間トラック、トラックII会議、中東カルテット、運営委員会、ワーキンググループ、専門家グループ、フォーカスグループ、秘密交渉、研究プロジェクトなど、何百ものイニシアティブが存在し、文字通り何トンにも上る量の報告書を作成してきた。

AHLC(アドホック連絡委員会)など、頭文字から命名するアイデアが尽きると、誰も名前を知らない委員会が作られ、カナダ人が取りまとめ役となって「名前のないグループ」と名付けられた。また、中東和平プロセスでは、ヘンリー・キッシンジャーの「ステップ・バイ・ステップ外交」やジェームズ・ベーカーの「シャトル外交」などの用語や、「すべてが合意されるまで何も合意されない」といったスローガンも生まれた。

また、1972年にヨルダンのフセイン国王とイスラエルのゴルダ・メイヤー首相が密会したときの逸話も秀逸だ。彼女はフセイン国王に対し、「イスラエルは敵に囲まれた国であることを理解しなければならない」と言った。これに対し、フセイン国王は「そんなこと理解できない、我が国は味方だけに囲まれている」と答えたという。それからたった二年後、同国はシリアの侵攻に脅かされた。当時の状況は、現在とは大きく異なっている。地図を見てみると、イスラエルを囲むのは敵よりも味方が多いことがわかる。アラブ諸国の大半は、イスラエルと平和を保っているか、平和に向けて動いている。

もう一つの変化の兆しとして、2011年の「アラブの春」では、米国やイスラエルの国旗を燃やすようなデモ以外に、初めてデモが行われた。アラブ世界に生きるユダヤ人に対するノスタルジーを表現した小説やドキュメンタリー、書籍なども一分野を形作っており、コスモポリタンな時代になったことを思い知らされる。現場では、2つの異なる組織と2つの別々の政府が存在しており、どちらも更なる分裂の種をはらんでいる。しかし、一つの重要な要素が欠けている。そう、パレスチナ国家だ。

1988年にパレスチナ国家の独立が宣言されたとき、年内に78カ国が承認し、その後138カ国にまで増えている。しかし、イスラエルとPLOの交渉によって、その存在が正式に認められる可能性はほぼゼロだ。これは、主に2つの条件が絡むためだ。1つは「すべてが合意されるまで何も合意されない」こと、もう1つは最終地位交渉が両当事者にとって「その後に主張することはもうできない」ことを意味するからだ。

パレスチナ国家だけが、拒否主義者の存在を揺らがせることができる。

ナディム・シェハディ

パレスチナ人弁護士たちは、国家はすでに存在しているので、交渉によって国家が「樹立される」という考えを否定している。必要なのは、パレスチナを国連の正式加盟国として認める国連安保理決議によって、国家を「現実化」することである。

隣接する2つの国家間には、何らかの争議があるものだ。イスラエルとパレスチナの国家は、単に他の国家よりも多くの問題を抱えることになるだけだ。その問題のうちいくつかは、長期間解決不能なままだろう。

2つの国家が存在することで、完全に状況が変化するだろう。これまで提案されてきたあらゆる計画、イニシアチブ、アイデアが解き放たれ、ほとんどの問題が徐々に解決に向かうと思われる。解決できない問題があれば、解決する必要はない。また、レジスタンス勢力の大義を失い、イラン主導の民兵に反対する抗議運動が活発なレバノンやイラクをはじめとする国で、もう一方の勢力を後押しすることになるだろう。

  • ナディム・シェハディ氏は、ニューヨークに所在するLAU本部・学術センターのエグゼクティブ・ディレクターであり、ロンドンに所在するチャタム・ハウスのアソシエート・フェローでもある。
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