

ロンドン:サウード家は1727年、ムハンマド・ビン・サウードが従兄弟のザイド・ビン・マルカーンの後を継いで都市ディルイーヤの統治者となった時に、国家形成への長い道のりの第一歩を踏み出した。
第一次サウード王国が誕生したこの決定的な瞬間を記念して、毎年2月22日は建国記念日としてサウジアラビア王国で祝われている。
ムハンマドは、父の側で政治を学んだ。父の統治期間を通して父を支援する重要な役割を果たし、1721年にディルイーヤがアル・アハサーのバヌ・ハリド族に攻撃された際には、指導者としての手腕を証明した。
ムハンマドは父の軍を勝利に導き、その過程でディルイーヤの地域における地位を強化した。
1725年の父の死後、ムハンマドはザイド族ワットバン家のマルカーンに忠誠を誓い、同王子が勝利を収めた後、翌年暗殺者によって王子の短い治世が終わるまで忠実に仕えた。
ディルイーヤ・ゲート開発局が発行した公式の歴史が証明しているように、当初から統一はムハンマドの夢であった。
「ディルイーヤの人々は、ムハンマドに全幅の信頼を寄せており、彼の指導力によってこの地域は分裂と紛争から解放されるだろうと確信していた」と当時のアラブ人史家たちの記録には記されている。
ムハンマドは既に、「献身、善良さ、勇敢さ、他者に影響を与える能力など、多くの個人的な特性」で知られており、彼への権力の委譲は「ディルイーヤの歴史のみならず、ナジュドやアラビア半島の歴史に変革をもたらす瞬間」であった。
彼は、既に行動的な人物として有名であったが、賢明な指導者であることも証明することになる。
ムハンマドは、より大きなアラブ国家を樹立することを最終目標に、ナジュドの近隣の町から始めて、部族間の政治的統一を達成するという困難な仕事に着手した。
ディルイーヤ・ゲート開発局が発行した公式の歴史が物語るように、「それは容易な仕事ではなかった」が、1765年に亡くなるまでに、ムハンマド・ビン・サウードはアラビア中央部にそれまで例のなかった偉大な政治的実体の基礎を築いた。
即位したその日から、「彼は、当時の支配的な現状を変える計画を立て始め、統一、教育、文化の普及、社会構成員間のコミュニケーションの強化、永続的な安全保障に向けて、この地域の歴史に新たな道を敷いた」
その後90年にわたり、ディルイーヤの権力と影響力は拡大し、統一という大業はムハンマドから3人の後継者たちへと引き継がれた。息子のアブドルアジーズはアル・トライフの王宮地区を建設し、アブドルアジーズ王の息子サウード大王の指揮の下、第一次サウード王国の権威は頂点に達し、アラビア半島の大部分にまで及んだ。彼が1814年に死んだ後は、偉大な戦士として知られる息子のアブドゥラーが後を継いだ。
しかし、マッカとマディーナの支配権をめぐって広大で攻撃的なオスマン帝国に挑んだことが、ディルイーヤの破滅を招くことになる。アブドゥラーはオスマン帝国の怒りを買い、オスマン帝国はディルイーヤがアラビアにおける同帝国の権威にもたらす脅威を取り除くため、大軍を派遣した。
この戦いは、スルタンの想像をはるかに超える時間を要した。不可能といえる不利な状況の中で数年にわたる激戦を繰り返しつつ、アラブ人は紅海沿岸からディルイーヤの城壁の前に最後の砦を築くまで徐々に追い詰められていった。