
ハラ・タシカンディ
リヤド:著名なサウジアラビア人のテレビディレクター、タレク・リリ氏が土曜日、原因不明の死を遂げた。この知らせは彼の娘でありジャーナリスト、ラジオリポーターであるハラ・タレク・リリ氏によってもたらされたものである。ハラ氏は故人に対する伝統的なイスラームの祈りをツイートし、続けて感動的な二度目のメッセージを発した。「神よ、この世で最も思いやりのある者であるあなたに、慈悲を賜りますように。」
情報省の前事務次官であったリリ氏はテレビディレクターの分野では先駆者であった。情報省の時代の彼はサウジアラビアのテレビに対していくつかの重要な貢献をなした。
彼の尽力によって今日のディレクターの道が開けた。彼はサウジアラビアにいくつかのチャンネルを創設し、キャリアを通してテレビ関連のコンサルタントを頻繁に務め、30年にわたってこの分野を良くしようと休むことなく働いた。
リリ氏はスポーツディレクター分野の仕事で知られ、サウジアラビアのサッカーファンの間では有名人であった。彼はまたメディア派遣団の一員として、1984年に開かれたロサンゼルスオリンピックにサウジアラビアの代表チームに付き従った。
父親の影響で彼はメッカにあるアル・ファラー男子学校を卒業すると軍隊に入隊する。それからファイサル王によって創設されるとそのサウジ放送局に加わることになった。
カリスマ性があり、柔和な語り口、その仕事を学ぼうとする熱心さにあふれたリリ氏は、メディアでのキャリアをカメラマンとして始める。2014年に行われたロターナ・ハリジア氏とのインタビューで、彼は「この仕事によって私は本当の自分を発見することができた」と語った。また続けて「私はこの仕事を愛している」とも述べた。
同僚であったフセイン・サバン、タラール・タラブルシ、イシティヤーク・マルーフ、ムハンマド・スンボール、その他とともにリリ氏は1970年代初頭、ハッジ巡礼の初めての放送でディレクターを務めた。この放送はサウジ王国全土のテレビチャンネルで放映されたのである。彼らが歴史的な放送の準備で機材を調整していたところ、その部屋に故ファイサル王が入ってきた時のことを彼はよく憶えていた。
「まるで自分の父親と座っているようでした。彼は私たちを誇らしげに眺め、そこで私たちは皆、彼が子供たちを誇りに思う父親なのだと感じました。」
一緒に働いていた人々や長年にわたる彼の仕事に感化された人々からリリ氏に対する賛辞の言葉がソーシャルメディアに殺到した。亡くなった時リリ氏は70歳台終盤だったと信じられている。
商務大臣にして情報大臣代理であるマージド・ビン・アブドゥラ・アル・カサビ氏はツイートでこう語った。「私は親愛なる故タレク・リリ先生の家族に心からの哀悼と同情を捧げます。先生はサウジ王国のメディアに長年にわたり献身的かつ誠実に仕えてくれました。サウジアラビアのテレビディレクターであり、情報省に甚大な貢献をした役人であります。」
一流のサウジアラビアのジャーナリストであり、アラビア語の日刊新聞紙オカズの前編集長であるハシム・アブド・ハシム氏はこうツイートした。「私たちの親愛なるタレク・リリ、私は今朝あなたの死の知らせ聞いてとても悲しかった。あなたの人生はテレビ界とメディア界における素晴らしい業績で満ちていた。あなたに神のお慈悲が賜りますように。あなたの愛する娘たち、スハとハラに、またあなたのすべての栄誉ある家族に対して、心からの哀悼を捧げます。」
サウジアラビアのテレビ司会者サラー・アルギャイダン氏はこうツイートした。「私がサウジアラビアのテレビに2002年に加わった時、彼は情報省の事務次官でした。彼のことをディレクターたちはテレビディレクターの世界の模範だと考えていました。神の御慈悲が彼に賜りますように。それと故人の家族に対しては私たちの哀悼を。サウジアラビアのメディアにいる同僚たちの皆さんにも。」
リリ氏の後には二人の娘が残されている。サウジラジオの本部長であるスハ氏、サウジラジオの番組部長であるハラ氏だ。