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古代アラブ文明の碑文がサウジアラビア全土で見つかる

碑文には、パルミラ文字、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語、古代エジプト語、バビロニア語の記述も含まれている。(シャッターストック)
碑文には、パルミラ文字、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語、古代エジプト語、バビロニア語の記述も含まれている。(シャッターストック)
ハーイルは古代史の観点からは最も豊かな地域の一つと考えられており、ユネスコに登録されているジュバもある。(提供写真)
ハーイルは古代史の観点からは最も豊かな地域の一つと考えられており、ユネスコに登録されているジュバもある。(提供写真)
ハーイルは古代史の観点からは最も豊かな地域の一つと考えられており、ユネスコに登録されているジュバもある。(提供写真)
ハーイルは古代史の観点からは最も豊かな地域の一つと考えられており、ユネスコに登録されているジュバもある。(提供写真)
ハーイルは古代史の観点からは最も豊かな地域の一つと考えられており、ユネスコに登録されているジュバもある。(提供写真)
ハーイルは古代史の観点からは最も豊かな地域の一つと考えられており、ユネスコに登録されているジュバもある。(提供写真)
ハーイルは古代史の観点からは最も豊かな地域の一つと考えられており、ユネスコに登録されているジュバもある。(提供写真)
ハーイルは古代史の観点からは最も豊かな地域の一つと考えられており、ユネスコに登録されているジュバもある。(提供写真)
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28 Jan 2021 07:01:37 GMT9
28 Jan 2021 07:01:37 GMT9
  • 最古のアラブ系イスラム・アラビア語関連の碑文は、紀元前1200年にまで遡るサムディック碑文だ

タレク・アル・タカフィ

メッカ:大部分がアラビア語で書かれた古代文明の13種類以上の碑文がアラビア半島で発見されたと、専門家らが発表した。

最もよく知られている碑文は、山々に刻まれた岩碑文であると、古代アラビア文字が専門の教授で、キング・ファイサル調査・イスラム研究センターの文化顧問スライマン・アル・ティアエブ博士がアラブニュースに語った。

「最古のアラビア系イスラム、アラビア語関連の碑文は、紀元前1200年にまで遡るサムディック碑文です」と教授は述べた。「政治的なサムディック碑文は見つかりませんでした。というのも、それらのほとんどは社会的なものであり、古代のサムディックやアラブ人の個人の考えを反映したものだからです。それらのほとんどは、砂漠や貿易ルート沿い、また王国の首都であったアルウラ、ナジュラーン、タイマー、ジャウフなどの都市の中で見つかりました」。

教授によると、2番目に有名な碑文はアラム語のもので、ダダン王国やリヒャン王国の首都があったアルウラにあり、紀元前1000年まで遡るという。「この2つの王国は紀元前10世紀からナバテア人に打倒される紀元前1世紀まで続きました」。

アラビア半島北西部で発見されたリヒャン碑文は、サムード語、サファー語、ナバテア語、アラム語の方言や、サバ語やミナ語の方言などの南アラビア語の方言に類似している、と教授は述べた。

彼は、これらの碑文の中で最も顕著なものは、アラビア半島の北西部と南西部、そしてハーイルの地域で発見されていると付け加えた。この地域は古代史の観点からは最も豊かな地域の一つと考えられており、ユネスコに登録されているジュバもある。

碑文には、パルミラ文字、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語、古代エジプト語、バビロニア語の記述も含まれており、その中には、様々な理由でアラビアに来た商人や兵士が書いたものもあるようだ。

「アラビアの碑文については、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、カナダ、日本の研究を含め、国内外の研究が数多く存在します」と、アル・ティアエブは語った。

キング・サウード大学(KSU)の古代史学の教授、サルマ・ホーサウィ博士によると、この地域の最初の記述物は数千年前に遡るという。

このような習慣が広まったのは、人々がその法律や交易上の契約を成文化する必要があったからだ。記述は、最初は絵を描くことから始まり、その後記号や音節となり、その後になってアルファベットの形を取るようになったと、彼女は述べた。

「アラビアには地域全体に碑文がありました。これらの碑文は、アラブ社会の様々な側面に関する情報を提供していました」と彼女は述べた。「神や宗教儀式などの宗教的な事柄、結婚や離婚などの社会的な事柄、部族名や地名などの地理的な事柄、職業や工芸品、商業条項、通貨、輸入、輸出などの経済的事柄などに言及していたのです」。

碑文の中には政治に関連したものや、国王や支配者の名前、戦争、国家の興亡などが記載されているものがある一方、また、記念碑と考えられるものや、この地域の歴史や文化に関する重要な情報源となっているものもある。

碑文の数は、社会の文化的水準と文書化への関心の高さを反映していると彼女は述べた。

碑文は、書き手の技量によって、岩の上に整然と書かれているものや、不規則な形で書かれているもの、寺院や家のような建物の正面や、墓石の上に書かれているもの、欠けたり崩れたりせず長期間その形を留められるよう、文字を粘土板に刻み、書いた後に焼いて固めたものなどが見られます」と、ホーサウィ博士は付け加えた。

当時の人々が感じていた愛、恐怖、憧れ、悲しみ、幸福感などの感情が反映されているので、これらの碑文からは歴史的な情報を引き出すことができます」と、ホーサウィ博士は語った。「だからこそ、碑文はその時代の人々が経験したことの真の目撃者と考えられ、この地域の文化の深さを浮き彫りにするのです」。

アラビア半島北部では、サムード文字が紀元前8世紀にサファー文字、アラム文字、ダダン文字、リヒャン文字、ナバテア文字とともに知られるようになり、王国全体の5000以上の碑文に見られる。

彼女は、碑文に使用されている言語や、それがカナン語なのか、アラム語なのか、アラビア語なのかについては意見が分かれていると指摘した。

しかし、ほとんどの考古学者は、「BやFのようなアラビア文字、砂漠を表す単語、ラクダなどの動物の名前、アル・ハレス、タイム、カイスなどのアラビア語の固有名詞に加えて、アブドゥラ、タイム・アル・ラット、アブド・モナット、アブド・マナット、アブド・ラブ・エル・ビン・アカビ、ラブ・エル・ビン・タイムのようなアラビア語の名前が付いたアラブの神々の名前が含まれていることを考慮すると」アラビア語的側面があることには同意していると付け加えた。

アラビア半島に焦点を当てた考古学研究は、ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルト、チャールズ・フーバー、ジョゼフ・アレヴィ、エドゥアルド・グレイザー、ウィリアム・パルグレイブ、ジョーサンとサヴィニャック、ジョン・フィルビー、ピーター・コーンウォール、ジェフリー・ペペ、リックマン、アルバート・ジャメ、ジャクリーン・バーン、ワイズマンなどの西洋人旅行者の到来とともに始まった。

ホーサウィ博士によると、最も重要なミッションの一つは、アメリカ人間学研究所が1950年と1951年にアラビア南部に派遣したミッションで、多くの遺跡を発掘し、その成果について多くの巻や論文を発表した。

「フィルビーは、アラビア半島について書いた最も著名な人物の一人と考えられており、王国のほとんどの地域を記述した複数の書籍、公式報告書、記事を書きました」と彼女は話した。「これらの活動には、1951年から1953年までのサウジアラビア北西部の発掘調査が含まれており、その結果は1957年に2巻に出版されました」。

アルバート・ジャメはフィルビーがアル・ファウ村の遺跡から集めた碑文を公開したと、彼女は語った。

「私たちは、王国全土の発掘調査においては、考古学部に代表されるKSUの大学の観光・考古学カレッジの努力を忘れてはなりません」と彼女は述べた。

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