










Lojien Ben Gassem、リヤド
サウジアラビアと日本との国交の歴史は、1909年に山岡光太郎がハッジ(メッカ巡礼)でサウジを訪れた時にさかのぼる。彼のアラビア半島を訪問は、初の日本人による巡礼として記録されている。
光太郎は自分をOmarと名付け、モンゴルからの巡礼者らと共にハッジを実行するため、日本を後にした。彼はメッカに到達した初の日本人巡礼者となった。
彼の次にハッジを実行した日本人は田中逸平で、「Hajj Noor田中逸平」とも呼ばれた。彼は1924年にアラビア半島を訪れ、1933年にも再び訪れている。
逸平は日本におけるイスラム研究の草分けの一人で、1925年に彼の巡礼の旅を記録した『イスラム巡礼・白雲遊紀関』と題する本を出版した。
彼は、日本とアラビア半島との関係を強めたいという自分の思いをこの中で詳細に綴っている。逸平の二人の門下生イノウモト モモタロウとソズキ タケシが逸平のハッジに同行した。後に二人共彼らの巡礼の旅について本を書いている。
ソズキは1943年に『聖地メッカへの巡礼の旅』という本を出版した。この本は1999年にキング・アブドゥルアズィーズ公立図書館によってアラビア語で出版された。
この本には、彼のアブドゥルアズィーズ国王との面会の様子や、彼がいかに国王の人柄を崇拝していたかについて記載されている。ソズキが国王と面会した時、彼は感極まって握手をしながら涙した。国王が他のゲスト全員と握手し、ハッジを行うためにアジアの果てからやってきたイスラム教徒たちへの感謝の意を表している間、ソズキは国王の傍に立っていた。
「アブドゥルアズィーズ王は無敵の人間であり、どこへ行こうとも勝利が彼に味方する」とソズキは彼の本に書いている。
「もしIbn Saud( アブドゥルアズィーズ王)がこの世に存在していなかったら、アラビア半島は今日まで統一されていなかったであろう... この王の強靭な体と恐るべき体格、満面に広がる力強い表情を今でも思い出す。」
ソズキは彼の本の中で、サウジアラビアという国は地理的にも宗教的にも全イスラム諸国に とって重要な存在だと書いている。
エジプトのポートサイドにある日本領事館は、アラビア半島の情勢を監視する任務を負っていた。アブドゥルアズィーズ国王がメッカに入り、マディーナ、ジッダ、ヒジャーズをサウジアラビアに統合した時、日本領事館の関心がにわかに高まった。
ポートサイドの日本領事は東京の外務省へ連絡を入れ、アブドゥルアズィーズ国王や彼による王国統一の成功、そして次々と開始される改革や開発についての噂が広がった。
1927年11月、ポートサイドの黒木時太郎日本副領事は当時の外務大臣田中義一に書簡を出し、アブドゥルアズィーズ国王によるヒジャーズを統合後のアラビア半島の経済状況を解説した。「アブドゥルアズィーズ国王 の成功は全くもって劇的な話であり、あれほど急速な進展を目の当たりにするのは稀である」と彼は述べた。
1939年、日本政府は田中義一外務大臣を全権大使としてサウジアラビアへ派遣し、中野エジロウを始めとする代表団がこの史上初の公式訪問に随行した。田中大臣はアブドゥルアズィーズ国王 と会見し、サウジ政府と協力して経済条約を履行していくことを申し出た。
この訪問の目的の一つは、アブドゥルアズィーズ国王を説得してジッダに日本の委員会を開設し、サウジと日本の関係を強化し、やって来る日本人巡礼者たちを受け入れてもらう許可を取り付けることであった。
中野はこの訪問について記録し、後日1941年に東京で『サウジアラビアという王国』と題する本を出版した。
中野のサウジ訪問に関する日々の記録の中に、アブドゥルアズィーズ国王 がカイロで日本の全権大使と会見した時のことを書いている。「国際関係について、国王 はこう述べた:『ヨー ロッパの有力な近隣諸国と良好な関係を築きたいと思っており、日本のことは東南アジアにおける偉大な国として敬意をもっている』」
サウジアラビアが1945年にドイツおよび日本と戦争状態にあると発表した際、サウジと日本の友好通商条約締結への動きは中断された。しかし、サウジアラビアの各聖地は、日本人イスラム教徒たちを引き続き受け入れた。
第二次世界大戦終了後、日本とサウジアラビアとの関係は再び進展し始めた。日本からサウジへの輸出は増大し、日本の輸出代理事務所を開設するために日本の使節団がサウジへ流れ込んだ。また、サウジの財務省と提携して交易の促進に努めた。
農林省園芸部長からの書簡によると、戦後初めての日本使節団は1945年にサウジアラビアに入国したという。
財務省次官兼ビジネス・都市開発プロジェクト補佐官がジッダで式典を催した。このイベントにはサウジ政府の高官、ビジネスマン、代理会社、通商業者、ジッダの外交官らが列席し、日本とサウジの通商活動に大きな影響を及ぼした。
日本の経済活動、サウジアラビアで通商を拡大したいという日本の強い意欲、そして日本からの輸入品を販売するためのサウジ市場の必要性、1953年における日本とサウジの外交関係の向上、これらによって、財務・国家経済省が二国間の交易確立を継続していくことに対する王室の許可がとりつけることができた。
サウジと日本の関係の深さは、両国の皇室間の友好的な関係を反映するものでもある。
日本の明仁親王は、1953年にロンドンにおけるエリザベス二世女王の戴冠式で、ファハド・ビン・アブドゥルアズィーズ王子と出会っている。
英国王室の外交儀礼に従って、日本の皇太子はファハド王子の真後ろに着席されていた。ファハド王子は明仁親王の地位に敬意を表し、席を交代したのだった。
日本の皇室一家はファハド王子の行為に感じ入り、日本の皇太子が最初に訪問する国はサウジアラビアとすることに決定した。そしてこれが日本の皇室に代々伝わる伝統となっている。
サウジと日本の外交関係についての話は、1957年にコセダ ユタカがサウジアラビアにおける委員に任命されたことに端を発する。「私はしばらく前にアブドゥルアズィーズ閣下の政府への代表使節に任命されました… しかし近年の中東における事件が原因で当時私の着任が先延ばしとなりました。今はサウジアラビアへ来ることができて大変嬉しく思っています。サウジは発展へむけて素早い対応を取っています。そうした動きがあるとは思いもよりませんでした」とユタカは語った。
「この場をお借りして、アブドゥルアズィーズ国王に感謝の意を表したいと思います。サウジアラビアは日本を最初に支援してくださった国の一つであり、日本の国連加盟の承認の協議中に賛成票を投じてくださいました」とユタカは述べた。
さらに同年、サウジアラビアは日本に大使館を開設し、1957年、アサード・アルファキ氏が駐日大使兼サウジ委員に任命された。
サウジアラビアにおける日本の委員は、サウジアラビアに日本大使館を開設する許可を要請、1958年、サウジアラビアの日本大使館開設が実現した。
(この記事の情報は全てKing Abdul Aziz Foundation for Research and Archives— Darah が出典と なっている)