
三菱自動車の前会長で、この日本の自動車メーカーと日産との連合を実現させた益子修が死去した。71歳だった。
益子は8月7日に健康上の理由で退任し、同社の特別顧問に任命されていた。三菱自動車によれば、8月27日に心不全で亡くなったという。
益子は2016年に日産の元会長カルロス・ゴーンと手を組んで、両社の連合を作り上げた。ゴーンは2018年に会計上の不正行為の疑いで逮捕および起訴されたが、保釈中に行方をくらましレバノンへ逃亡した。
益子は2005年に三菱自動車の社長に任命された後、数十年にわたる大規模かつ組織的な不具合の隠蔽で傷ついた同社のブランドイメージ再建のため、身を粉にして働いた。
穏やかで物柔らかな話し方だった益子は、三菱自動車の再生を象徴する存在となった。
益子はゴーンの逮捕に衝撃を受け、悲しい気持ちになったと話していた。
「私はまだ理由が分からないし、理解すらできていない」と、当時彼は記者たちに語った。
日産自動車の内田誠代表執行役は哀悼の意を伝えた。
「彼の知見や先見性は自動車業界へのインスピレーションとして残るだろう。私たちはこれからも常に、彼の記憶に尊敬の念を持つ」と内田は述べ、連合の構築において益子が果たした役割や、自動車業界全体に対するその他の貢献を強調した。
三菱の日産および仏ルノーとの連合は明敏な動きとして見られ、この自動車メーカーに競争が激化する世界市場での優位性をもたらした。
「三菱自動車における約16年の任期中、益子はその経営手腕を十分に証明することで大きな成果を成し遂げた。また、会社が困難を乗り越えることも可能にした」と、三菱自動車は述べた。
益子は同社の成長の重要な源である東南アジアでの事業構築も助けた。また、環境に優しいモデルの開発も積極的に推進した。
益子は早稲田大学で政治学と経済学を学び、エンジニアリングの背景は持たなかった。卒業後は1972年に商社の三菱商事に入社した。
2004年にパジェロやアウトランダーなどのスポーツユーティリティビークルを作る三菱自動車に、海外事業担当常務取締役として入社した。
東京に拠点を置く三菱自動車は、益子の希望を尊重して特別な告別式は計画していないと述べた。家族はすでに通夜と葬儀を執り行ったという。
AP