
ドバイ:ロバート・アルバレスは、アニメーション業界で50年以上の経験を持つアメリカのアニメーター、絵コンテ・アーティスト、テレビ・ディレクター、脚本家である。アルバレスは、主にテレビ向けの何百もの作品に携わり、幅広い経歴を持つ。
ハンナ・バーベラやカートゥーン・ネットワーク・スタジオで複数の番組を手がけたことで知られる。また、ディズニー・テレビジョン・アニメーション、ニコロデオン、フレデレーター・スタジオ、ワーナー・ブラザース・アニメーションなど、他のアニメスタジオでも働いている。
このアニメーターは、プライムタイム・エミー賞を6回受賞し、エミー賞に合計25回ノミネートされている。
アルバレスはアラブニュース・ジャパンの取材に対し、幼い頃から漫画やアニメが好きだったと語った。「ゴミ箱からアニメの絵を引っ張り出すために、自転車でスタジオに行くようになった。その絵を見て、自分でもアニメーション映画を作ろうと思うようになった」
「お気に入りのシリーズはたくさんある。『トップ・キャット』や『フリントストーン』、初期のハンナ・バーベラのアニメも好きだ。一番好きな長編アニメはディズニーの『101匹わんちゃん』だ。1961年に実家で初めて観た。母の友人がディズニーで働いていて、私が見られるようにと借りてきてくれたのです」とアルバレスは付け加えた。
アルバレスは、宮崎駿監督のアニメ映画が好きだと語った。「スタジオで作業している宮崎監督のビデオを見るのが好きなんだ。彼が制作スタッフにどのように接しているのかが興味深い」と語った。
受賞歴のあるこのアニメーターは、1968年に中継ぎとして働き始めた。「最初に担当したのは、ハンナ・バーベラの『バナナの花びら』(1968年)だった。私は適切な時期に適切な場所で働いていたので、幸運にも長編『イエロー・サブマリン』(1968年)に携わることができた」とアルバレスは語った。
アルバレスは、東京ムービー新社(トムス・エンタテインメント)を中心に、日米のアニメーターと制作会社が共同で制作したファンタジー・アニメ「リトル・ニモ」(1989年)を手がけたことでも知られている。
「リトル・ニモ」では、誰が声をかけてくれたのか覚えていない。あの映画に携わって一番良かったのは、ビル・ハーツと仕事ができたことだ。彼は私がシュイナードにいたころの先生だった。とアルバレスは語った。
「ハーツは裏庭に小さなスタジオを持っていた。彼と一緒に仕事をするのは、彼が僕の先生だったときも同じだった。彼はとてもフレンドリーだった。僕にとって『リトル・ニモ』の仕事はフリーランスベースで、他の仕事と同じように扱ったし、楽しい経験だった」と付け加えた。
日本のアニメスタジオ(東京ムービー新社、東映アニメーションなど)は、『インスペクター・ガジェット』、『ユリシーズ31』、『マイティ・オルボッツ』、『バイオニック・シックス』など、様々な洋画アニメーションのプロジェクトを手がけていることで知られている。
アルバレスはアラブニュース・ジャパンの独占インタビューに応じ、日本のアニメ関連プロジェクトに携わった経験を次のように語った。「ディズニーのTVアニメーションの仕事をしたときは、アメリカのアーティストとしか仕事をしなかった。トムス・エンタテインメントでシーケンス監督をした他の番組でも同じことが言える。私は常にアメリカ人のスーパーバイザーと仕事をした。私は、トムス・エンタテインメントがアメリカの番組で行ったことがとても好きだった。私の意見では、彼らは当時最高のTVアニメを制作していた」
アニメーション・アーティストになりたい人、アニメーション・プロジェクトに携わりたい人へのアドバイスについて、アルバレスは「若いアーティストにまず言いたいのは、拒絶されたときの対処法を学ぶことだ。最初の仕事を得るために、あるいはキャリアの過程で、誰もがどこかで拒絶される。私も1967年に最初の仕事を得ようとしたとき、いろいろなスタジオから断られた。若いアーティストには規律と才能、そして運が必要だ。何時間でも絵を描くことを厭わないことだ」
「絵コンテやキャラクターデザインなど、アニメーションの仕事を複数こなせれば、スタジオにとってより貴重な存在になる。すでにアニメーションの仕事をしている友人と連絡を取り合うこと。仕事の推薦の多くは、以前の番組で一緒に仕事をした友人から来る。少なくともキャリアの最初の20年間は、誰にも嫌われないようにしよう。批判を受けることを厭わない。最後に、アニメーションの世界に入ろうと奮闘している若いアーティストたちに、自分の知識を進んで伝えること」
アルバレスは、アニメーション業界の変化と健康上の問題により、2023年8月に引退した。