
東京:シワにならないプリーツの服や、友人でアップル社創業者のスティーブ・ジョブズ氏のトレードマークである黒のタートルネックを手がけたことで有名な日本人デザイナー、三宅一生氏が死去したと、メディアが9日に発表した。84歳だった。
共同通信によると、1980年代に日本の経済力とファッション技術の代名詞となった三宅氏は、8月5日に肝臓がんのため死去したという。今のところ詳細は不明である。
三宅氏は、彼の進む道を変えた姉のファッション雑誌を読むまでは、ダンサーかスポーツ選手になりたかったと言われており、彼の服の自由な動きを可能にした背景には、そうした当初の興味があったと考えられている。
三宅氏は広島に生まれ、7歳のときに学校にいる間に原爆に遭った。彼は後年、この出来事について語りたがらなかった。2009年、当時のオバマ米大統領の広島訪問キャンペーンの一環としてニューヨーク・タイムズ紙に寄稿した際、自身に原爆を「生き延びたデザイナー」というレッテルを貼られるのは嫌だと語っている。
「目を閉じると、誰も体験してはならないものがまだ見えるのです」と書き、それから3年足らずで母親が被曝して亡くなったことも付け加えた。
「私は間違いであったとはいえ、それらを過去のものとし、破壊ではなく、創造できるもの、美と喜びをもたらすもののことを考えるようにしました。服飾デザインの分野に引き寄せられたのは、それが現代的で楽観的な創造形式であることも理由のひとつです」
彼は東京の美術大学でグラフィックデザインを学んだ後、パリで服飾デザインを学び、有名ファッションデザイナーであるギ・ラロッシュやユベール・ド・ジバンシィのもとで働いた後、ニューヨークへと向かった。1970年に彼は東京に戻り、三宅デザイン事務所を設立した。
1980年代後半には、紙と紙に布を挟んで折り畳み、熱プレスすることでプリーツの形状を保持する新しい方法を開発した。それをダンサーに着用させ、その自由な動きを検証した結果、「プリーツプリーズ」という彼の代表的なコレクションが誕生した。
その後、1997年に実質引退して研究に専念するようになるまで、主力のイッセイ・ミヤケをはじめ、男性向け・女性向けのバッグ、時計、香水など十数種類のファッションシリーズを展開した。
2016年に、未来のデザイナーが直面する課題は何かと問われた彼は、イギリスのガーディアン紙に、人々の消費量が減る可能性が高いと指摘した。
「我々は工程を減らさなければならないかもしれません。これは重要なことです」と述べたことが引用されている。
「パリでは、服を作る人たちをクチュリエと呼びます。彼らは新しい服を開発しますが、実はデザインの仕事は、実生活に役立つものを作ることなのです」
ロイター