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「何かしなければならなかった」 トルコ人ボランティアが能登半島地震被災者に食事を提供

2024年1月5日、元旦に石川県能登地方を襲ったマグニチュード7.5の大地震の後、石川県白丸地区で自宅を掃除する男性。(写真:Philip FONG/AFP)
2024年1月5日、元旦に石川県能登地方を襲ったマグニチュード7.5の大地震の後、石川県白丸地区で自宅を掃除する男性。(写真:Philip FONG/AFP)
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05 Jan 2024 08:01:52 GMT9
05 Jan 2024 08:01:52 GMT9

石川県輪島市:5日朝、地震に見舞われた石川県輪島市の厳しい寒さの中で、アイディン・ムハメット氏と彼の会社の従業員たちは、避難所となったコミュニティセンター前で、暖かいスープとご飯を振る舞っていた。

トルコ国籍の彼が中部地方で経営する建設会社の10人のボランティアチームは、4日の午後から活動を始めた。彼らは、元旦に発生したマグニチュード7.6の地震で大きな被害を受けたこの町の被災者に、地震発生以来温かい食事を提供し続けている。

2011年3月、日本列島の反対側で大規模な地震と津波が発生し、およそ2万人が亡くなって以来、被災地に駆けつけて支援の手を差し伸べることは、ムハメット氏にとって「第二の使命(Second Calling)」となっている。

妻の祖国である日本で過去30年間生活しているムハメット氏は、テレビで壊滅的な被害のニュースを見て以来、援助を提供したいと腐心していた。輪島への道路が開通したと知るやいなや、彼は行動を起こした。

ムハメット氏と彼のチーム――他の7人のトルコ人と2人のベトナム人――は、供給品を仕入れるために必死に電話をかけ続け、4日午前3時頃、雪道に適切なタイヤを装着していない不安を押しのけ、彼らの拠点である名古屋から出発した。

「何かしなければならなかった」と彼は言った。

トラック5台で構成された彼のチームは、通常ならその半分の時間で到着する300キロの道のりを11時間かけて到着し、すぐに水やオムツ、レトルト食品など、あらゆるものを配布する作業に取り掛かった。

「疲れはてていたはずなのに、ここに着くと元気が出てきた」と彼は言った。

休む暇はない

46歳のムハメット氏は、助けが来ないと感じたときの絶望と孤独を知っているからこそ、モチベーションが湧くと語る。

「他の災害現場にも行ったことがあるから、被災者が私たちを見て喜ぶ様子を感じ取ることができる。だから、この活動を続けたいと思う」と彼は日本語で話した。

輪島市は漆器工芸で知られる人口約3万人の都市だ。今回の地震では、家屋や事業所の倒壊や焼失が相次ぎ、最悪の被害を受けている。

「本当に感謝している」と、72歳のマツオ・ヤタ氏は、野菜スープとご飯をトレイに載せて他の人たちに届けた後に語った。ホールは700人以上の避難者を受け入れている。「温かい食事は最高だ」

ムハメット氏は、2011年の災害では準備が不十分だったが、津波に襲われた町の一部の被災者に援助を提供することができ、また、名古屋近郊での洪水の際にも救援活動を行ったと語った。

ムハメット氏は、彼が住む東海地方で今後30年以内に大地震が発生する可能性があると警告する地震学者の言葉を受け、最悪の事態に備えていると語った。

彼の会社は、1分間に400リットルの水を供給できる井戸を掘り、大型の発電機を確保している。ムハメット氏はまた、友人の農家が作った米を購入し、およそ1年分の1トンを緊急用として会社に備蓄している。

絶望の現場に到着したムハメット氏は、市民ボランティアの不足を目の当たりにして悲しくなったという。

「10人のチームが2日間でできることは限られている。何かできる人が、もっと多くいるはずだ」と彼は語った。

「元旦なのは知っている。しかし、休んでいる場合ではない」

空腹の避難者たちが続々と朝の食事を受け取りに歩いてくる中、一人の老人がムハメット氏に近づき、感謝の気持ちを込めて彼を強く抱きしめた。

ロイター

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