
パレスチナ自治区、ラマッラー:パレスチナのアテフ・アブ・セイフ文化相は10月7日、予定されていた式典のためにガザに滞在していた。その日、ハマスによるイスラエルへの攻撃が戦争を引き起こし、彼はこの地区に90日間閉じ込められることになった。
その苦痛に満ちた数か月間、アブ・セイフ氏は想像を絶する死と破壊を目の当たりにし、自分が生まれたこの沿岸部の領土で数え切れないほどの親戚や友人を失ったという。
戦地からら脱出することに成功し、占領下のヨルダン川西岸地区のラマッラーに戻った50歳のアブ・セイフ氏はAFPの取材に対し、そのトラウマ的な体験について語った。
「ガザはもはや、ガザではない」と彼は言い、戦争が終わった後は、「新しいガザが必要になる」と付け加えた。
同大臣は、10月7日の「パレスチナ遺産の日」に、ガザ南部の都市ハーン・ユニスにあるアル・カララ博物館で予定されていた式典のため、同地区を訪れていた。
「私は、歴史上初めてガザからパレスチナ遺産の日の開始を祝いたかった」と彼は語る。しかし、それは叶わなかった。
その土曜日、ハマスは前例の無い規模の攻撃を開始し、イスラエルの公式発表に基づくAFPの集計によれば、イスラエル国内で民間人を中心に約1160人の死者を出した。
武装勢力はまた、約250人の人質を拉致した。イスラエルは、ガザには132人が残っており、そのうち29人が死亡したとしている。
イスラエルはハマスの壊滅を誓い、激しい空爆と地上攻撃を開始した。ハマスが支配するガザの保健省によれば、女性と子供を中心に少なくとも2万7840人が死亡した。
アブ・セイフ氏によれば、この犠牲者の中には、多くの友人や、義理の姉とその子どもたちを含む100人以上の親戚が含まれているという。
アブ・セイフ氏は、戦争が始まってから48日間、17歳の息子や家族とともにガザ北部のジャバリア難民キャンプで過ごしたという。
しかしその後、彼らの拠点はイスラエル軍の空爆を受け、ガザの人口240万人の半数と同様に避難を余儀なくされた。
彼らは南下し、エジプトとの国境付近にあるラファに向かった。イスラエルは現在、同都市が軍事作戦の次の目標であると述べている。
アブ・セイフ氏にとって、ジャバリアで過ごした日々は辛い記憶だ。親戚の家が空爆を受けた後、がれきの下から遺体を引きずり出すのを手伝ったこともある。
「ショックだった。友人が引き上げた遺体は、彼の16歳の息子だった」とアブ・セイフ氏は語る。「ガザの戦争は醜い」
アブ・セイフ氏は、最終的にエジプトとのラファ検問所を通ってガザを離れ、ヨルダン経由でラマッラーに戻ることができたという。
「私には(ジャバリア)キャンプ周辺が今どうなっているのか、想像もつかない」と彼は言った。
そして、ある日ガザに戻った時、「私の友人の半数がもう生きていないことを知ったらどうすればよいのか」と彼は語った。
「ガザの人々の悲しみはすべて後回しだ……悲しみはもはや意味を持たず、生き延びるための役に立たないからだ」
戦争が始まる前、アブ・セイフ氏は週末に友人たちと会うため、毎週木曜日にラマッラーからガザに通っていた。
今では、その「半数近く」が殺されてしまったという。
文化省によれば、ガザの文化遺産に対する被害は甚大だという。
モスクや教会を含む約195の歴史的建造物、24の文化施設が損傷または破壊されたという。
5000年前のローマ時代の円柱に囲まれたアル・カララ博物館や古代フェニキア時代の港も破壊されたとアブ・セイフ氏は述べた。
アブ・セイフ氏は、破壊に対して「沈黙を守る」国連の文化機関ユネスコ(UNESCO)を批判した。
彼は帰還後、ガザ在住のパレスチナ人作家や学者たちに、そこでの生活について書くよう呼びかけた。
その結果が、「Writing Behind the Lines(戦場の中から)」と題された、24人の作家による物語集である。
「The Donkey of Return(帰還のロバ)」と題された一編は、悲惨な燃料不足の中、ロバが引く荷車を使うことを余儀なくされたガザ住民の物語である。
また、「Seven times displaced(7回の避難)」や「We hope to survive(生き延びることを願って)」など、国内避難民の挑戦に関連する作品もある。
「ガザの作家にとって……自分たちの生活について書くことは重要な行為だ」とアブ・セイフ氏は語る。「世界中の人々に読んでもらいたい」
AFP