
ホロン(イスラエル): ホロコーストを生き延びたマイケル・クペルシュタインさんにとって、ガザでハマスの人質となっている孫の消息を待つのは、悪夢を再体験しているような気がする。
「第二のホロコーストだ」と84歳の彼は、とっくに癒えたと思っていた古傷が再び開いてしまった苦悩を語った。
この八十代の老人は、体調が弱っているにもかかわらず、木曜日にポーランド南部のアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所跡地で毎年行われる「生者の行進」に参加する決意を固めている。
彼は心の中で、いつか孫のバール・クペルシュタインさんが生きている姿を再び見たいという希望を強く抱いている。
「政府は、戦争は続けなければならない、選択の余地はない、と言っている」
イスラエルへの攻撃中、ハマス過激派は251人を拉致し、ガザに連れ帰った。そのうち58人がまだガザに拘束されており、イスラエル軍が死亡したと発表した34人も含まれている。
クペルシュタインさん自身は1941年、母親がナチスのソ連進攻から逃れ、生後わずか数カ月で彼をタシケント(当時ソ連の一部、現ウズベキスタン)に匿ったため、辛うじて死を免れた。
1972年、彼は妻のファイナさんと2人の子供とともにイスラエルに移住した。
しかし、悲劇は一家に影を落とし続けた。
ボランティアの救急隊員だった息子のタル・クペルシュタインさんは、数年前、4歳の女の子を助けようと駆け寄った際に事故で重傷を負った。
この事故によって彼は身体障害者となり、話すことも動くこともできなくなった。
17歳になったタルさんの長男バールは、タルさんの同居介護のために祖父母の家に身を寄せた。
父の跡を継いだバールも救急隊員となり、心臓発作を起こした祖父の命を救ったこともある。救急救命処置を施し、迅速に救急車を呼んだ。
それからわずか2ヵ月後、21歳のとき、2023年10月7日のハマスの攻撃で、ガザ国境近くのノヴァ音楽祭から拉致された。
このフェスティバルでの大虐殺により、370人以上が死亡した。
手足を縛られ、首にはロープがかけられていた。
それ以来、2月にガザのトンネルでバールとともに拘束されていた人質が解放され、バールが生きていることが確認されるまで、家族には何の報告もなかった。
フェスティバルの目撃者はAFPに、バールが武装勢力に捕まったとき、負傷者の手当てをしていたと語った。
そして4月5日、ハマスの武装組織は、バールが別の人質と一緒に映っているビデオを公開した。
「バールは非常に痩せている。祖父の目をしている。祖父の目を受け継いでいるのは彼だけです」と彼の祖母であるファイナ・クペルシュタインさんは言った。
「若い頃は祖父によく似ていた。でも今、彼の目は光を失っている。顔色も悪い」と、涙をこらえながら言った。
「さよならのキスもなしに家を出ることはなかった。とても寂しい」
マイケル・クーパースタインさん、人質は全員解放されているはずだと言った。
「でもまだ待っている。倒れた兵士が増える以外、何も変わらない。なぜなんだ?」
バールは4月初めに23歳になった。
言語障害があるにもかかわらず、父親のタルさんは彼と話すことを切望している。
タルさんは最近、大変な努力の末、何とか言葉を発した。それは、いつかまた息子と話せる日が来るという希望で家族を満たす、誇らしい瞬間だった。
ファイナさんは毎日バールの部屋を訪れる。部屋はきちんと整理整頓されている。
毎食、家族はバールのために椅子を空け、バールの写真をテーブルに置く。
彼女は、「お父さんは今、話しているのよ」と伝えたいと切望している。
「もうすぐ歩けるようになる。あなたはこの瞬間を夢見ていた。私たちのもとに戻れるよう、強く生きてください」
AFP