


ベイルート:完全に破壊された巨大なサイロからあふれ出たトウモロコシがくるぶしまで届く中、救助隊は掘削機を誘導し、ベイルートの港湾労働者がまだ生きている可能性がある部屋に入る道を片付ける。
一瞬で街を破壊した大規模爆発から3日が経ち、時計は、生存者が見つかる可能性のある金曜日をすでに刻んでいた。
レバノン、フランス、ドイツ、ロシア、その他の国々から来た救助者らは、数メートルのがれきの下に埋まった制御室の入り口を見つけるために交代制で作業した。
「グラウンドゼロ」という用語は、1945年の広島と長崎への原爆投下で初めて使われた、爆発に最も近い地点を表すものだ。ベイルートのグラウンドゼロは、生存者を捜すために一丸となり、懸命に活動している救助隊で一杯だった。
「現実を甘く見るのはやめましょう。可能性は非常に低いです」。そう言ったのは、救助活動の最前線にいる、総勢55人のフランス派遣部隊の一員であるアンドレア中尉だった。
「それは前にも行われています。3日後にも、4日後にも」生存者は見つかりました、と彼は言った。彼の後ろにある黒焦げになったサイロが、ベイルートの荒廃した輪郭を背景に、幽霊のように見えた。
この種で近代史において最悪クラスの、この災害による死者数は8月7日時点で154人で、数十人がいまだに行方不明者だと報告されている。
アンドレア氏の説明によると、港湾での救助活動が制御室を中心に行われているのは、爆発時、かなりの人数がそこで働いていたと思われるからだという。
しかし、港湾で起きたいくつかの、より小さな主要な爆発で、職員は部屋から逃げたかもしれない、と彼は述べた。
「我々が捜索区域で発見した4人の遺体は……サイロの足部にある、安全のための出口の階段の横で見つかりました」とアンドレア氏は説明した。
爆発によってサイロからまき散らかされた数千トンのトウモロコシや小麦、大麦は、港湾の駐車場やふ頭を覆った。
不気味な静けさが、いつもは車や労働者、貿易業者であふれている、それと分からなくなったドックを満たした。
救助隊は地面の割れ目の上に静かに立ち、角砂糖のように港の周りに放り出された、砕けたコンテナが林立する周辺を捜索犬が歩き回っていた。
それらから流れ出た貨物は、フランス語の教科書、高級ハンドバッグ、輸入ビールの箱など、レバノンに入ってきたばかりの品物だった。
3人の赤十字ボランティアは、ぼう然とした様子で爆発現場を歩き回り、荒廃した街を見るために水際に立ち寄った。
「とても静かなようですが、嫌な静けさです。この町の何かが死んで、再起することはないでしょう」と、彼らのうちの一人が両手を腰に当てて言った。彼は目の前の破壊された街を見続けることができなかった。
聞こえたのは、巨大な掘削機ががれきの上から道を砕いたり、回転のこぎりが鉄棒を切断したり、削岩機がコンクリートの塊を細かく砕いたりする音だけだった。
フランスの救助隊のリーダーで、6日に訪れていたエマニュエル・マクロン仏大統領に報告をしたティシエ大佐は、多くの災害現場で働いてきた。
「ここでの特徴は、爆心地が、我々のいる場所から数メートル離れた所にあるということです。地震では通常、震央は地下数百メートルです」と彼は述べた。
「地震では、物は大抵、何層にもなって崩れ落ちます……ここでは、全てが粉砕されました」と彼は述べた。
それはつまり、7日にベイルートの港に集まった重機隊は、がれきの下に埋まったものに到達する前に、固いがれきの山を掘らなければならなかったということだ。
「実際の衝撃の中心となると、9月11日の「グラウンドゼロ」を思い出させます」と、2001年の米ニューヨークのツインタワーへの攻撃についてアンドレア氏は語った。
「破壊の程度で、我々のチームのメンバーの一部は2010年のハイチの地震を思い出すでしょう」と彼は述べた。
「ここで違うのは、地震ではないということです。これをやったのは人間です」
–AFP