Since 1975
日本語で読むアラビアのニュース
  • facebook
  • twitter
  • Home
  • 中東
  • 9.11から20年、タリバンはアルカイダとの関係を断ち切ったのか?

9.11から20年、タリバンはアルカイダとの関係を断ち切ったのか?

2021年8月11日、タリバンがカブールの北約200kmにあるバグラーン州の州都プリ・フムリーを占拠した後、プリ・フムリーの住民とともに目撃されたタリバン兵士 (2L)。(ファイル / AFP)
2021年8月11日、タリバンがカブールの北約200kmにあるバグラーン州の州都プリ・フムリーを占拠した後、プリ・フムリーの住民とともに目撃されたタリバン兵士 (2L)。(ファイル / AFP)
Short Url:
08 Sep 2021 03:09:25 GMT9
08 Sep 2021 03:09:25 GMT9
  • 2020年2月に米国とタリバンとの間で署名されたドーハ和平合意に基づき、タリバンはアルカイダとの関係を解消しなければならない。
  • タリバンの創始者であるムラー・オマル氏が、2001年9月11日の米同時多発テロ事件の首謀者であるオサマ・ビンラディン氏の引き渡しを拒否したことにより、米国のアフガニスタン侵攻を招くことになった。

ラヒムラー・ユスフザイ 

ペシャワール: アフガニスタン人のタリバンの指導者らは個人的には、アルカイダのために相当な犠牲を払ったと述べているものの、公にはアルカイダやその元指導者であるオサマ・ビンラディン氏を匿っていたことや、9.11米同時多発テロ事件やその他の軍事作戦の準備のためにアフガニスタンが使われたことを認めていない。

また、アフガンのタリバン指導者らは、9.11米同時多発テロ事件の後、2001年10月にブッシュ政権がアルカイダを壊滅させ、オサマ・ビンラディン氏を匿っていたタリバンを追放するために報復攻撃を開始したため、米軍侵攻によりタリバンはアフガニスタンで力を失ったと主張している。

アルジャジーラのニュースチャンネルで放映されたビデオテープで、2004年10月29日に撮影された映像のフレームグラブ (L) に映る、アルカイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディン。 (ファイルAFP)

タリバンの公私の立場の違いは、ムラー・ムハンマド・オマル氏によって創設されたイスラム主義組織タリバンが、9.11米同時多発テロの責任を負いたくないということを示している。つまり、米国がアフガニスタンに侵攻した際、タリバンは実際には知らず知らずのうちに犠牲者になっていたと主張するため、否定しているのだ。

米軍のアフガニスタン侵攻から20年を経た今もタリバンがアルカイダとの関係を維持しているかどうかは、結論が出ていない。しかし、米国や国連は、タリバンがアルカイダとの関係を断ち切っていないと主張し続けており、アフガニスタンのさまざまな州でタリバンと共に戦って死亡したアルカイダのメンバーや関係者の名前を提示している。 

2001年12月14日、タリバン元指導者ムッラー・モハンマド・オマル氏の屋敷の残骸に立つ、カンダハールのグル・アガ知事派の兵士。(ファイル / AFP)

タリバンはこれらの主張をプロパガンダだと非難し、全面的に否定している。2020年2月29日にタリバンと米国間で署名されたドーハ和平合意では、タリバンはアルカイダとの関係を解消しなければならないとされている。これを考慮すれば、タリバンのこのような反応は当然である。 

当初からタリバンとアルカイダの関係性は曖昧であり、タリバンがアルカイダを支配しているのか、またはアルカイダがタリバンを支配しているのか、意見が分かれていた。アルカイダがタリバンに資金を提供し、管理しているというのが欧米諸国における一般的な見方であった。しかしタリバンの指導者らはこれに反論し、自分たちがアフガニスタンの権力者であり、当然、自分達が采配を振るっていると主張した。

タリバンとアルカイダの関係が特異であるのは、タリバンは戦闘能力が高く、3つの超大国(英国、ソ連、米国)を含む侵攻国に抵抗してきたことで知られているアフガニスタン人で構成されていたからである。一方、アルカイダのメンバーは、様々な国に住むアラブ人が中心で、様々な理由によりアルカイダに刺激を受け、戦争への呼び掛けによってアフガニスタンにやってきた者らで構成されている。

不思議なことに、ビンラディン氏とタリバン幹部の初対面は、疑心暗鬼の環境下で行われた。この初対面は、1996年9月26日に初めてカブールがタリバンに陥落する数日前に、ジャララバードで行われた。数日前にロガール州でムジャヒディーンとの戦いで息子を亡くしたタリバン軍指揮官の一人、ムラー・ムハンマド・サディク氏が率いるタリバンの代表団が、ジャララバード市郊外にあるビンラディン氏の自宅を訪れ彼と会談し、今後の計画を聞いた。

ビンラディン氏がジャララバードに留まるのか、アフガニスタンを離れるのか、それともタリバンに敗れて脱出しようとしているアフガンのムジャヒディーンに同行するのか、彼らにはわからなかった。タリバンの戦闘員らは、この時ちょうどこの地域を掌握し、カブールに向かっていた。

2021年8月16日、アフガニスタンにおける20年に及ぶ戦争の驚くべき急速な終結の後、カブール路上の車両で警備をするタリバン兵士。(ファイル / AFP)

ビンラディン氏との交渉に向けてタリバンの統一見解をまとめるための会話に私は立ち会った。その会話は、ムラー・サディク氏、当時タリバンの最高指導者に次ぐ権力者であったムラー・ムハンマド・ラッバーニ氏、そしてタリバン軍最高司令官のムラー・ボルジャン氏の間で行われた。

全員がビンラディン氏の意図に難色を示し、アルカイダのトップがタリバンの支配地域に留まることを決定する前に、タリバンは毅然とした態度をとることを決定した。最終的には、ビンラディン氏がタリバンに忠誠を誓い、ムラー・オマル氏を「アミール・アルムーミニーン」として受け入れることを約束したことで、この問題は解決した。その直後、ビンラディン氏はムラー・オマル氏に忠誠を誓った。そのことは、私が行ったインタビューを通じてタリバン最高指導者に伝えられた。

タリバン最高指導者は、タリバンに関するあらゆる問題の最終的な権限を有していたため、「アミール・アルムーミニーン(忠実な指揮者)」と呼ばれていた。彼は誰に対しても報告の責務を負わないが、タリバンすべてのメンバーは彼に報告の義務を負っていた。彼の決定には従わなければならず、彼に従わないことは罪となる。

2021年○月24日、ヘラートで行われた式典で、降伏してアフガニスタン政府に加わろうと、武器を下に置くタリバン兵士。(ファイル / AFP)

タリバンとアルカイダの両方が、その強さと関連性を保っている共通の要因があるとすれば、それは過激派グループとして団結して生き延びる能力があるということだろう。そうでなければ、両組織は一度だけでなく何度も分裂していたかもしれない。

今にして思えば、1994年の秋にカンダハルで活動を開始したタリバンが、最高指導者を置いたことは、組織をまとめる上で非常に重要であった。アルカイダにもオサマ・ビンラディン氏という有能な創設者がいた。

タリバンは、27年という長い間、カンダハル・ムジャヒディン系の敵対組織からメンバーを集めたにもかかわらず、組織としてほぼ団結していた。タリバン幹部らは、政治的、金銭的な誘惑に負けて離反したりせず、個々にムジャヒディンの各派や米国主導の北大西洋条約機構(NATO)軍に対してそれぞれ戦争を仕掛けることもなかった。

2021年8月13日、 カンダハール路上のアフガニスタン国家保安局(NDS)の車両内で撮影されたタリバン兵士。(ファイル / AFP)

ムラー・ムハンマド・ラスール氏をはじめ、一部小さな分裂はあったものの、組織全体を弱体化させ、崩壊させるほどの規模ではなかった。

これまでタリバンには、タリバン創始者であるムラー・オマル氏を含め、3人の最高指導者がいた。オマル氏はカンダハル出身の村の聖職者で、読み書きがわずかしかできなかった。2016年に死亡するまで彼はタリバンの最高指導者であり続けた。最高指導者が死亡するとタリバンが分裂するのではないかと他のタリバン関係者が恐れたため、彼が生きている間は彼の指導力は揺るぎないものとなり、彼の死さえも2年近く秘密にされていた。

他の2人の最高指導者は、物議をよんだ軍司令官でパキスタンのバローチスタン州で米軍のドローン攻撃で死亡したムラー・アクタル・ムハンマド・マンスール氏と、タリバンをこれまでの最大の軍事的勝利である国全体の制圧に導き、尊敬を集める宗教学者のシャイフ・ハイバトゥラー・アクンザダ氏である。

米国国務省の厚意で2015年7月30日に取得した、この日付のない写真に写るムッラー・オマル氏。(ファイル / AFP)

ムラー・オマル氏は、既に知られているように、9.11同時多発テロの後、ビンラディン氏を米国側に引き渡すことを拒否した。米国がアフガニスタンに侵攻する恐れがあるなど、オマル氏には非常に大きな圧力がかけられたが、彼の考えを変えるには至らなかった。

また、タリバンに近いパキスタン政府は、パキスタンの宗教学者やパキスタンの情報機関「3軍統合情報部(ISI)」を通じて、ビンラディン氏を米国やサウジアラビアに引き渡すようタリバンに圧力をかけていた。またしても、その試みも成功しなかった。

タリバンの戦闘員らは米軍の空からの攻撃に対する防衛策を何ももたなかったため、数週間で敗北した。しかし、多くの犠牲者は出なかった。彼らはただ撤退し、農村の人々に溶け込んでいった。

バトルカンパニー、1-32歩兵大隊、第3旅団戦闘団、アフガニスタン国軍の兵士がムッラー・オマル氏のモスクに接近するなか、未舗装の道路で配置に就くM249軽機関銃で武装した米兵。 (ファイル/ AFP)

米軍が侵攻した際、アルカイダはパキスタンとの国境にあるトラボラへ向かうことを決めた。2001年12月、ビンラディン氏がそこにいることを知った米国は、猛烈な爆撃を行った。

こうして一連の出来事は、米軍の侵攻、タリバン政権の崩壊、そして数多くのタリバン戦士の死へとつながっていった。ムラー・オマル氏は、たとえビンディン氏の首に1,000万ドルの懸賞金がかかっていたとしても、イスラムの教えでは仲間のムスリムを裏切って引き渡すことは許されないと明言した。

Twitter: @rahimyusufzai1

特に人気
オススメ

return to top