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イラク国民、米国による侵略を痛みと共に振り返る

2台の自動車爆弾が立て続けに爆発した現場で負傷し逃げるイラク人女性。2004年8月1日、バグダッドの2つの教会の近く。(AFP)
2台の自動車爆弾が立て続けに爆発した現場で負傷し逃げるイラク人女性。2004年8月1日、バグダッドの2つの教会の近く。(AFP)
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11 Mar 2023 09:03:13 GMT9
11 Mar 2023 09:03:13 GMT9
  • フセイン体制下での抑圧の記憶に付きまとわれている彼らからは将来についての本当に楽観的な声はほとんど聞かれない
  • 「私たちの生活は20年にわたって苦しい混乱の中にあるのに、それに対する償いはありません。これまで経験してきた以上に酷い状況は今後ありえません」

バグダッド:米国主導のイラク侵略によりサダム・フセイン体制が打倒されてから20年、戦争で疲弊したイラク国民が独裁、大規模な紛争、長年にわたる激しい騒乱の辛い記憶を語る。

フセイン体制下での強権的抑圧について語る人もいれば、銃弾、爆弾、流血で台無しにされた、トラウマに満ちた自身の子供時代について話す人もいる。

彼らはダーイシュの恐怖や、反政府抗議運動が短期間で終わり希望が打ち砕かれた時のことを振り返る。前進の兆しが見えるという声もあるが、将来についての本当に楽観的な声はほとんど聞かれない。

ズルフォカール・ハッサンさん(22)は幼い頃、母親から夜中に起こされて浴室に隠れた。バグダッドの彼らが住んでいた地区で米軍による空爆があったのだ。

「私たちの周りの家は崩壊していました」と、彼は2007年9月6日の空爆について振り返る。アル・ワシャシュ地区で米軍のヘリコプターと戦車がシーア派武装組織を標的に空爆を実施し民間人14人が死亡した時のことだ。

翌日、7歳だった彼は、夏の猛暑の時期に家族がいつも寝ていた屋上テラスのあたりに目を向けた。

「銃弾の破片があり、うちのマットレスが焦げていました」と、今はカリグラフィーを学ぶ学生であるハッサンさんは思い起こす。

同世代の若者の例に漏れず、彼は自身の体験を淡々とした口調で語る。彼らにとって、市街戦、自動車爆弾、路上に横たわる死体などは悲惨な日常風景だったのだ。

「私たちは子供時代を通して怯えていました」と彼は言う。「夜は怖くてトイレに行けないし、部屋の中で一人で寝ることもできませんでした」

彼のおじの一人は2006年から行方不明になっている。車に乗って店に食料品を買いに出かけ、そのまま帰ってこなかったのだ。

ハッサンさんは2019年末、構造的な失政と腐敗、インフラ崩壊、失業などに抗議する若者主導の大規模なデモに参加した。

「でもやめました」と言う彼は、数百人の死者を出した弾圧について語る。「希望を失っていたのです。自分と同じような若者が死んでいくのを見ましたし、私たちは無力でした」

「殉教者は何の結果や変化ももたらすことなく犠牲になったのです」

それにもかかわらず、彼はイラクに幻滅して国外に移住した多くの人々とは違い、国を離れるつもりはないという。自分まで移住したら「誰も残らなくなるでしょう?」と彼は言う。

フェミニストで人権活動家のハナア・エドゥアルド氏(77)は、イラクの民主化を求めて数十年にわたり闘ってきたベテランだ。

キリスト教徒で元共産主義活動家の彼女はフセイン体制に反対したことで、旧東ベルリン、ダマスカス、そしてイラク・クルディスタンの険しい山岳地域への亡命を余儀なくされた。

2003年3月の侵攻直後にバグダッドに戻った時、最初は「夢」のようだったと彼女は言う。

しかし、間もなく幻滅することになった。既に長年の厳しい制裁で打撃を受けていた占領下の国で、米軍の装甲車列が通りを走るのを見たからだ。

既にその後に訪れる宗派間の流血の影が忍び寄る中、活動家や関係者が日常的に拉致され、脅迫され、殺害されている国において、彼女は1990年代に自身が設立した非政府組織「アル・アマル」で活動を続けた。

この組織が当時も今も公言している目標は「独立した市民社会、そして人権を信じる民主的なイラクを築く」ことだと彼女は言う。

自身が収めた勝利の一つである、議会における女性議席の割り当て制の導入について、彼女は「歴史的瞬間」と誇らしげに振り返る。

2011年に撮影された映像は、エドゥアルド氏の恐れ知らずな振る舞いをとらえている。彼女はヌーリ・アル・マリキ首相(当時)を面と向かって非難し、拘束されたデモ参加者4人の釈放を要求しているのだ。

アル・マリキ首相の隣に座っている男性が彼女を落ち着かせようとしている。現首相のムハンマド・シア​​・アル・スダニ氏だ。

「恐れは何ももたらさない」と言う彼女は、現在のイラクでは「課題が山積み」であると強調しつつ、既得権益にまみれた諸政党の主な目的は権力に留まることだと厳しく非難する。

彼女は、全面的な変革と刷新を要求する反政府デモを歓迎しつつも、幻想は抱いていないという。「イラクには民主主義は存在しません」

アラン・ザンガナさん(32)は、2003年に家族と一緒にテレビで米軍がバグダッド入りする様子を見ていた時は12歳で、北部のクルディスタン地域に住む公務員の息子だった。

「私たちは明け方まで起きて展開を見守っていました」と彼は語る。

その数週間後、全世界に中継するカメラが回る前で米軍がバグダッドの大きなサダム・フセイン像を引き倒すのを見て衝撃を受けたと、彼は振り返る。

「2003年4月9日に像が倒された時、本当なんだと思いました」

若いクルド人としては珍しく、ザンガナさんはアラビア語を話す。イラク南部で育ったからだ。

彼は3年前から時事や歴史についてのポッドキャストを作り、言論の自由の限界を押し広げている。

「イラクのエリートは過去20年間の出来事の恐怖から、自分たちの中に閉じこもっている」と彼は言う。「友人を亡くしたり脅迫されてりしてきたからだ」

彼のポッドキャストのゲストたちは、イラクのしばしば緊迫した政治、この国の豊かで歴史ある文化、経済の悲惨な状況などについて議論するが、慎重に危険を避けつつ話さなければならないことも多い。

「触れてはならないことがまだ多く残っています」と彼は言う。「健全な状況ではありません」

1980年代のイラン・イラク戦争の中で育ち三児の母となったスアド・アル・ジャウハリさん(53)は、アマチュアサイクリングチームを設立して、今の女性や子供にもっと多くの喜びを届けようと努めてきた。「私たちは戦争の中で子供時代を過ごしました」と、バグダッドに住む彼女は言う。「多くのものを奪われたせいで子供時代を楽しめなかったのです」

シーア派で、イラクの少数派であるクルド系の彼女は、フセイン体制による反体制派弾圧の最盛期に家族、友人、近所の人などが国外追放された時のことを覚えている。

彼女のいとこたちが投獄された時、彼女のおばは悲しみのあまり亡くなってしまったのだという。

彼女はフセイン体制の崩壊を隣国イランから見ていた。シーア派が多数派のこの国に家族で避難していたのだ。

2009年に母国に帰った彼女は、暴力に負けずに「どのような状況になっても」この国に留まろうと決意した。「いつまでも亡命生活を送るのはつらい」からだ。

イラクでダーイシュが打倒された2017年、彼女は保守的な社会的慣習を破り、初めて人前で自転車に乗った。女性が屋外で運動するのは不適切だと見なす「社会からの視線が怖かったです」と彼女は言う。

彼女はめげずに続け、自身のサイクリングチームを設立した。彼女の家族と同じような家族たちにとって暗い時代の中で、少しでも喜びを届けたいとの思いからだ。

「私たちの生活は20年にわたって苦しい混乱の中にあるのに、それに対する償いはありません」と彼女は言う。

そして、戦争で疲弊したイラク国民にとっては楽観主義として通用する言葉を口にした。「これまで経験してきた以上に酷い状況は今後ありえません」

 AFP

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