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戦時の悪魔化と非人間化は残虐行為の正当化である

2023年10月9日、イスラエル軍の攻撃を受けたガザで立ち上る煙。(ロイター)
2023年10月9日、イスラエル軍の攻撃を受けたガザで立ち上る煙。(ロイター)
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23 Oct 2023 09:10:57 GMT9
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言葉遣いの影響は大きい。戦時や紛争時なら、それはさらに大きくなる。暴力的な対立では、激化しやすいレトリックがどうしても広範囲に用いられる。とりわけ、相手を悪魔扱い、非人間扱いする物言いが増える。国内外で支持を集めるために皮肉としてそのような言葉を使う人もいれば、コミュニケーションの手段として他の言い方を知らない人もいる。

言葉で人は殺せないと主張する人は、次の事実を無視している。言葉は、直に殺傷はしないかもしれないが、大量虐殺をはじめとする最悪の残虐行為が起こる条件や環境を作り出すのだ。ナチスは、ユダヤ人を人間に劣るネズミ、害虫と呼んだ。カンボジアのクメール・ルージュは敵を「虫」と呼び、彼らが消えても「死者の数に入らない」と主張した。 ルワンダでは、フツ族のプロパガンダが、少数民族のツチ族を繰り返し「ゴキブリ」や「ヘビ」と呼び、「ゴキブリを駆除せよ」と煽った。そして私たちは、それがどのような結末をもたらしたかを知っている。

人間性を剥奪するこのような行為は、ある集団を辱め、貶めるだけではなく、その人々に対する暴力を正当化しようとするプロセスの一環でもある。イスラエルとパレスチナの紛争では長年にわたってそのやり口が繰り返され、敵対行為が勃発するたびに言葉の激しさが増している。イスラエル人とパレスチナ人はあまりにも長い間、互いを人間とみなすのをやめてきた。ましてや生きる権利を含めて平等な権利を持つ人間として考えることなどなかった。

相手を人間として見ず悪魔化することは、「他者に対する完全な人間性の否定」と定義されている。それは、部分的にせよ完全にせよ、人の人間性を否定し、道義を重んじる、理性的に判断するといった、人を人間として唯一無二の、自然界のどのような存在とも違う存在たらしめている特徴を放棄することだ。さらには、悪魔化した相手には、さまざまな感情を抱くなど人間の本性に最もかかわる特別な属性もないものと考えることだ。

イスラエル人を悪、パレスチナ人を動物と呼ぶのは、侮蔑の表現の中でよく見られる。だが、10月7日にハマスが残虐行為を行って以来、そのような言葉遣いはさらに極端になり、ハマスとイスラム聖戦が一緒くたにされるほどになっている。ガザの大多数の一般のパレスチナ人は、ハマスの圧政とイスラエルの過酷な封鎖の狭間で、生き延びようとしているだけだ。だが、結果的に、板挟みにあっている民間人であるにもかかわらず、正当な標的とみなされる事態になっている。

歴史は、人間が恐ろしい残虐行為に走る可能性があることを何度も教えている。文明が、攻撃性を排除しないまでも、それを抑制する手段やメカニズムを発達させてきたゆえんだ。悪魔化と非人間化は、国連憲章、世界人権宣言、ジュネーヴ条約第4条などに成文化されているような社会的行動の許容規範に反している。本来、これらの条約によって、たとえ戦時中、紛争中でも、人間が他の人間をどのように扱うべきかについて、世界的なコンセンサスが形成されるはずだった。

しかし、対立する相手を人間としてみなさないとなると、これらの条約は敵には適用されないと思い込んでしまう。イスラエルとハマスの間で現在起きている過去最悪の敵対行為で、あらゆる抑制が失われていることがその表れだ。双方が、乳幼児、女性、高齢者を含む罪のない民間人を大量に殺害し、多くのイスラエル人が人質にとられている。それぞれが、敵を自分と同じ人間で、自分と同じ基本的権利を持つ存在とみなしていたら起こり得ないことだ。

イスラエル人とパレスチナ人はあまりにも長い間、互いを人間とみなすのをやめてきた。

ヨシ・メケルバーグ

民間人の死亡に関しては、紛争中ずっとその状況が続いている。ガザにおけるイスラエルの対応は、数千人の命を奪い、何十万人もの避難民を出しているが、ガザのパレスチナ人をハマスとの戦争の巻き添えになっただけの存在として扱うのもそのひとつだ。イスラエルがパレスチナ人を対等な人間として見たことがないと言い切れる根拠は十分にある。ナクバから占領と封鎖に至るまで、一般のパレスチナ人の生活は、自由で安全なイスラエル国家を樹立するというプロジェクトにおいてはあくまでささいな付け足しに過ぎなかった。

クネセトの議員アリエル・カルナー氏は、ハマスの殺害行為に対し、無分別にも「今の目標はただひとつ、ナクバだ。1948年のナクバを超えるナクバだ」と言い放ち、第二のナクバかそれよりもさらに極端な対応を要求した。ハマスによる罪のない人々の虐殺に対する怒りは理解できるが、自国が中心になって重要な役割を果たした1948年の残虐行為よりもさらにひどい対応をしようというこの呼びかけは、大量殺戮と移住強制の扇動である。ここに見られる原罪は、パレスチナ人の人間としての苦しみをないものとして無視し、彼らを苦しめるのを一切やめず、彼らの集団的権利を一切認めないことである。

この社会で平和が実現するためには、振り子が非人間化から再人間化へと振れなければならない。しかし、まさにこの考え方が、今の紛争に過激な目的を抱き、それを拒否する人々を恐怖に陥れる。何をもって勝利とするかにかかわらず、勝つまで争いを続けたい人にとって、敵を悪魔化することは有効な手段である。そもそも、なぜ自分と似た人間の属性を持つ人を殺すのか、という話だ。和平プロセスでは、長年そしり続けてきた相手に歩み寄り、信頼する必要があるが、その第一の条件は、敵を等しく人間として見るのを妨げる巨大な心理的ハードルを克服することである。

1990年代、紛争で肉親を亡くしたイスラエル人とパレスチナ人の遺族のグループが、勇気をもってイスラエル・パレスチナの共同団体「ペアレンツ・サークル・ファミリーズ・フォーラム」を設立した。死別がまた起こるのを防ぐため、対話、寛容、和解、平和を通じてあらゆる手を尽くすことを目的としている。同団体は、「悲しみを分かち合い、希望をもたらす」というスローガンのもと、イスラエル・パレスチナ合同追悼記念日の実現にも尽力した。そのメッセージの核心は、苦しみには国籍も宗教もなく、誰もが等しく影響を受ける、だからこそ、私たちは互いの人間性を認め合わなければならない、ということだ。

しかし、憎悪が渦巻く中ではこのユニークなイニシアチブは拒絶され、イスラエルでは大勢が同団体のユダヤ人を裏切り者とみなし、彼らが家族を亡くした苦しみと痛みを無視した。だが、この人々が賞賛に値するという事実に、議論の余地はないはずだ。彼らは、あまりにも長い間争い続けてきた二つの民族の関係の中心に人間性を据えているからだ。そして今も、日を経るごとに、数千人の単位で遺族に名を連ねる人が増え続けている。この団体の例に倣い、互いの人間性を認め合って平和への希求を決意して初めて、この無意味な殺戮を終わらせ、永い平和を築ける可能性が生まれる。

  • ヨシ・メケルバーグ氏は、国際関係学教授、王立国際問題研究所MENAプログラムのアソシエイトフェロー。国際的な印刷・電子メディアに定期的に寄稿中。X:@YMekelberg
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